カヴァイエスの遺体は同じく1944年4月に殺された12人と共に、フランス解放後に発見された。そして第二次世界大戦後、この城塞の庭の一角に「銃殺された者たちの壁(Mur des Fusillés)」が作られた。この壁には、抵抗運動のためにドイツに捕まり、この城塞で銃殺された者たちの名前を彫った石版200枚以上が並べられている。
これがカヴァイエスの名が彫られた石板である。O. C. Mとは、« Organisation Civilie et Militaire » の略で、フランス北部の占領地域で活動していた「民間および軍事組織」のことである。彼は初め、南部の非占領地域で活動組織「解放」をエマニュエル・ダスティエらと共に立ち上げたが、北部の活動にもすぐに関わるようになっていった*1。
姉フェリエールが書いたカヴァイエスの伝記 Jean Cavaillès. Un philosophe dans la guerre 1903-1944 の最後に、カヴァイエスの埋められていた場所の近くに「白いバラ」が咲いていた、という記述がある。私は80年も前のことだとは承知でその話を最後に持ち出し、墓地のどこかに白いバラが咲いていないだろうか、と尋ねた。係の人からは、確かにそれは手がかりの一つになりうるが、それだけでは特定できない、との返答を受けた。
*2:アラスの墓地には、戦死者の墓が並ぶ一角がある。この戦死者とは、フランスなので勿論、第一次世界大戦のときのものである。« Français inconnu(無名のフランス人)» と書かれたものも含む、三桁に及ぶ墓標がそこには並ぶ。アラスは「アラスの戦い」とも呼ばれる、第一次世界大戦の激戦地であり、街も有名な鐘楼も含め、多くが破壊された(街の美術館でそのときの写真を見ることができる)。フランス語で文字通り「大戦(La grande Guerre)」と呼ばれる、この戦争のヨーロッパにおける特別な意味を感じることのできる街でもある。