Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

三つの細やかな変奏:アガサ・クリスティー『メソポタミヤの殺人』

 今回取り上げるのは、アガサ・クリスティーの『メソポタミヤの殺人』(1936)である。この長編は傑作とも秀作とも言い難いが、それでもこの時期の彼女の試みが分かる、興味深い佳品である。ここでは、本作を三つの先行作との関係で簡単に論じたい。

 参照するのはハヤカワ文庫版(高橋豊訳、1976年)である。

 

【以下、本作の真相に触れる。】

 

1.見える者と見えない者

 まず取り上げたいのは、最終盤の推理の場面、ケアリーとコールマンを犯人候補から排除することができない理由をポアロが述べる部分である。二人はレイドナー夫人が殺された時刻には、外に出ており、現場であるテル・ヤリミアには入ることができなかったと思われていた。しかし、「外部の人間は一人も入らなかった」(114)という小間使いらの証言から、ポアロは次のように述べる。

彼らは、外部の者なら確かに気がついたでしょう——が、はたして〔建物の居住者たる〕隊員に気がつくかどうか、疑問ですね。たとえケアリー氏かコールマン君が中へ入ったとしても、使用人たちはそんなくだらないことなんか憶えていないだろうと思います(331頁)

 ここには、ある有名短編からの興味深い発想の展開が見られる。その短編とは(以下、その短編のタイトルとトリックに触れる)チェスタトン「見えない人(透明人間)」である。

 「見えない人」では、街のどこにでもいる交換可能な人物、しかも建物に入っても自然な人物=郵便配達人は、建物を見張っている人の「目に見えない」のであった。対して本作では、この図式が面白いかたちで逆転されている。今度は、建物に居住している人物が、郵便配達人同様、交換可能な仕事を建物の中で担う人物たる小間使いや使用人の「目に見えない」のである。つまり、「見えない人」では、建物の外にいる「誰でも良い」ような人物が「目に見えない」とされていたのに対し、本作では、建物の内側に住んでいる特徴を持った人物が「目に見えない」とされているのである。

 残念ながら、この推理はあくまでも可能性の検討に過ぎない*1。真相に至る推理に組み込まれていれば、興味深いロジックが生まれていたであろう。

2.内と外

 次に本作のメイントリックを検討しよう。「誰がレイドナー夫人の部屋にどのように入り、彼女を殺害することができたか?」——これが本作の謎であったわけだが、その解決はこれまた、一種の逆転によってなされる。犯人である彼女の夫レイドナー博士は、事件の間中ずっと屋上におり、唯一確固としたアリバイがあったと思われていたのだが、実はレイドナー夫人に窓から顔を出すようにし向け、その顔に屋上から重い石臼を落とすことで、彼女を殺害していたのである(石臼には綱が結び付けられており、殺害後引き上げることができた)。

 さて、このトリックもまたチェスタトンのある短編の展開である。それは(以下、その短編のタイトルとトリックに触れる)「見えない人」同様、『ブラウン神父の無心』に収められた「神の鉄槌」である。この短編では、ハンマーによる撲殺と思われていた事件が、実はハンマーが上から落とされていた、というかたちで解決される。本作ではこの「ハンマー」が「石臼」に変えられている訳だ。

 しかし新たな展開もある。一つは、石臼に綱が付けられていたため、引き上げて凶器を隠すことができた、という点。そしてもう一つ、より大事な点は、「内と外」をめぐる構図の逆転で謎が解かれることにある。つまり、「いかにして夫人の部屋に入ったか」という〈外から内へ〉に関する謎が、「内からわずかに外へ出ること」で、つまり〈内から外へ〉という仕方で解かれているのだ。

 とはいえ、ここには論理の逆転によるダイナミズムは希薄である。この「顔をわずかに外へ出す」ことが、逆転としては「わずか」過ぎるのである。この点を突き詰めることで、1990年代前半のあの大作が産まれることになるだろう。

3.一なる物と多なる物

 最後に見るのは、引き上げた石臼の隠し方である。これは、単純であり、「血痕のついた側を下にして、ほかの石器と一緒に屋上に並べ」たのである(355頁)。このトリックの先行例は明らかであろう。すなわち(以下、その短編のタイトルに触れる)「折れた剣」である。だがこの応用は、上記二つに比べてあまりに直接的であり、新たな創意が加えられている訳ではない*2。それゆえ、三つの変奏の中ではもっとも詰まらないものと言えるが、とはいえ、やはりチェスタトンの短編が意識されていることは注目に値しよう。

 

 過去のブログ記事でも見てきた通り、この時期のクリスティーは意識的にか無意識的にか、チェスタトンのトリックの様々な展開を試みていたように思える*3。本作では、何と三つもの短編が参照され、展開されている。この、チェスタトンの三つの主題の変奏という点で、本作はクリスティーの作品群の中で特殊な地位を占めているということができるだろう*4

 

[補足]その後、本作にはさらにもう一つ、チェスタトンの作品が関係していると思い至った。それは「秘密の庭」である。【以下、同短編の真相に触れる。】クリスティーのこの長編では「被害者が首だけ内から外に出す」のであった。対してチェスタトンの短編では、「犯人が、切り落とした被害者の首だけを庭の内から外に出す」のである。このことに気がついたブラウン神父とシモンとの会話は、本作の真相にも示唆的である。会話部だけ抜粋しておこう。

ー「庭からは出ていません」(ブラウン神父)
—「庭から出ていないですと?」(シモン)
ー「完全に出たわけではありません」
ー「人間は庭から出るか、出ないかのどちらかだ」
ー「必ずしもそうとは限りません」

*1:ケアリーとコールマンも犯人の可能性から排除されない、というこの推理は、アリバイのある唯一の人物であるレイドナー博士だけが結果として疑惑の外に置かれる、というミスディレクションとして機能している。

*2:とはいえ、伏線は巧みに張られている。事件前の屋上の描写には以下のような部分がある。
「レイドナー博士は腰をかがめて〔…〕たくさんの石器や壊れた土器類を熱心に眺めていた。手臼やきねや、石のみや石斧などの大きなものから、〔…〕土器の小さな破片などがたくさんあった」(58頁)。

*3:『ABC殺人事件』及び『オリエント急行の殺人』の記事を参照。こうした試みが、『杉の柩』の記事で書いたような、大きな転回に結びついたというのが私の考えである。

*4:また本作では、ラヴィニ神父が実は泥棒であるというサブプロットも用意されているが、こうした点は『ナイルに死す』などにつながっていくように思われる。