エラリー・クイーンの諸作品で、あるべきものが「無い」ことが手がかりとなるという、いわゆる「ネガティブ・クルー」が重要な役割を演じていることは、既にフランシス・M・ネヴィンズによっても指摘されている*1。ここではこの「ネガティブ・クルー」に関連して、『スペイン岬の謎』(1935)及び『中途の家』(1936)という時期的に近接した2作品における、「記号の不在」とでもいうべき事態を簡単に考察してみたいと思う。
探偵小説の形成過程を辿っていくと、伏線、ミスディレクション、手がかりといった記号が単純に分離できず、互いに連関し合うように展開していくことが分かる。ここで扱われるのも、そうした連関の諸事例に他ならない。
【以下、作品の真相に触れる】
まずは『スペイン岬』*2。ここで不在の記号とは、手紙における文字である。マーコ宛ての手紙の一部、「夜の一 ラスでお会い」において欠落している部分がそれである。
この欠落した箇所を、探偵エラリーと行動を共にするマクリン老判事は当初、「夜の一時にテラスでお会い」と推理する。しかし、最後の解明で明らかになるのは、ここが実は「夜の一二時にテラスでお会い」であった、ということである。
ここで、最初の推理は「ミスディレクション」として機能している。読者は「一時」が待ち合わせの時間であったと誤導される(ちなみにこうした探偵ないし捜査陣の推理がミスディレクションとして機能するケースは、国名シリーズの先行作にも見られる)。しかし最後の解明で明らかになるのは、この記号の不在が「伏線」でもあった、ということである。伏線を差し当たり、「事件を指し示す記号と思われていなかったものが、最後の解明において記号になる」と定義すれば、まさにこの不在の部分を解明以前は誰も特別な記号と思わない、という点で伏線なのである。
したがってこの記号の不在は、一方でそこからミスディレクションが導出され、他方で最終的には、この不在そのものが伏線という〈記号〉になる、というあり方をしているのである。勿論、探偵が記号の欠落した箇所をある仕方で読む訳だから、「手がかり」でもある。ただし、解明以前には手がかりとしては読者に与えられないので、「ミスディレクションを導出しつつ、伏線として機能する」あり方のほうが支配的だと言えるだろう*3。
続いて『中途の家』*4。本作では、先ほどの手紙の一部のように、読者の目に直接提示されるような形での「記号の不在」が問題となっているわけではない。ここで取り上げたいのは、「中途の家とその周囲に吸い殻や灰などが全くない」ことである。これは、煙草を吸っていたら当然あるべきはずの痕跡がない、ということを探偵自らが示すという点で、まさに「ネガティブ・クルー」である。探偵クイーンは、この手がかりから、「マッチは煙草を吸うために使われた」ということをまずは否定する。この部分もまたミスディレクションとして機能するといってよい。実際、最終的な解明では、他の情報が出てきた結果、「煙草ではなくパイプ(もしくは葉巻)を吸っていた」という形で推論が修正されるのだが、この最終的な結論を隠すような形に、探偵エラリーの最初の推理は働くからだ。
したがって、この「吸い殻や灰の不在」は手がかり(ネガティブ・クルー)であると同時に、そこからミスディレクションが導出されるようなものでもある、と言えるだろう。
このように、両作において「記号の不在」といってもそれぞれのあり方は異なっている。『スペイン岬』では、その不在が読者の目の前に提示されつつ、そこからミスディレクションとしての推理がまずは導出されるような、そうした伏線として(さらには手がかりとして)機能する ー すなわちミスディレクションを導く伏線。対して『中途の家』は典型的なネガティブ・クルーとしての手がかりでありつつも、やはりそこからミスディレクションとしての推理が導出される ー すなわちミスディレクションを導く手がかり。
クイーンはこのように、様々な「記号の不在という記号」を提出することで、探偵小説における多様な記号様態の産出に大きく貢献しているように思える。伏線、ミスディレクション、手がかりがそれぞれ単独の記号として機能していた作品群から、どのようにこれらが絡み合い展開してきたか ー こうした記号の形成過程はいずれ明らかにしていく予定だ。
*9/29 最初に執筆した際手元になかった『スペイン岬の謎』を参照し、字句や表現を一部修正。内容に本質的な変更はない。