Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

現象学者との邂逅—フェリエール『カヴァイエス:戦中の哲学者』要約 (4)

 実姉ガブリエル・フェリエールによる数理哲学者カヴァイエスの評伝『ジャン・カヴァイエス ― 戦中の哲学者 1903-1944』(Gabrielle Ferrières, Jean Cavaillès. Un philosophe dans la guerre 1903-1944 [1950], Paris, Félin, 2003)の要約、今回は第4章の後半である。話は1928年、兵役が終わったところから始まる。

第4章 兵役(後半)

最初の邂逅*1

 1928年、カヴァイエスは兵役から戻り、社会学セレスタン・ブーグレ(Célestin Bouglé, 1870-1940)を長とする社会資料センター(Centre de documentation sociale)の古文書保管人秘書として働く。このセンターでは彼は参照文献の作成、図書館の整理などをしていた。
 この頃彼は自分の博士論文について、「仕事は少しずつ進んでいます — 私はカントールのトンネルの果てに光を見ています — これは一度終わってしまったなら、接近の歩みの予備的なものにすぎなくなるでしょう(…)」と語っている〔カントール研究は博士副論文の中心的な部分を構成することになる〕。

 続いて1929年2月27日の手紙を見てみよう。「あの哲学者」の登場である。

土曜日、私はフランス哲学会でフッサールの話を聞きました(…)。彼はフロックコートを身にまとい、眼鏡をかけています — しかしその演説の内には真の哲学者の熱気と簡潔さがありました。(p. 73)

 このフッサールの講演こそ『デカルト省察』の土台ともなった、かの有名なパリ講演(2月23, 25日)である。これにはレヴィナスパトチュカらが出席したことでも知られており、フランスでの現象学受容に大きな役割を果たしたとされている(例えばフーコーはフランスにおける二種類の異なったフッサール読解 — サルトルのそれ*2とカヴァイエスのそれ — の端緒としてこのパリ講演を挙げている)。

二度目の邂逅

 そして同年の復活祭の休みの際、ブーグレはカヴァイエスに、フランスとドイツの哲学を研究している学生の間で開かれる集会に出席してはどうかと提案する*3。提案を受け、カヴァイエスはドイツに出発する。それこそ、哲学史上有名な「ダヴォス会議」第二次大会である。1929年3月23日の手紙は次のようなものだ。

私たちは何人かのドイツの学生と一緒に、峡谷に沿って歩いていました。(…)そこにはフッサールハイデガーの擁護者であるレヴィナスがいました、彼は『哲学雑誌(Revue philosophique)』にフッサールについての論文を掲載することになっています。また、私がどこで勉強しているのかと聞くと「カッシーラーの下でだ」と応えた者もいました。(…)彼〔カッシーラー〕は私たちにとっては新カント派の代表でした。(p. 75)

 周知の通り、このダヴォス会議ではカッシーラーハイデガーの論争が行われ、一般にはこの論争でハイデガーの優位が明らかになったとされている(カヴァイエスは帰仏後、この論争に関する報告書を書いている)*4。彼はこの年、その後の哲学史に大きな影響を与える講演と論争二つに、レヴィナス共々出席したことになる。フッサールハイデガー、二人の哲学者はカヴァイエスに強い印象をもたらしたようだ*5

 同年9月になると彼はテュービンゲンに向かう。そこではポール・デュ・ボア・レイモンがかつて関数論を教えており、カヴァイエスは彼の仕事を研究し、図書館で手稿にあたることを考えていた*6
 11月にフランスに戻って後、1929-30年の冬の間、カヴァイエスはアグレガシオン — 今度は数学のそれ — の準備に打ち込む。彼は同僚たちのことも気にかけており、彼らの成功を手紙の中で祝福している。彼が挙げている名前の中には「メルロ=ポンティ、数理哲学に情熱を抱いているロトマン」があることは注目に値しよう。

フリードマン宛書簡

 ここで、カヴァイエスが友人ジョルジュ・フリードマン(Georges Friedmann, 1902-1977)に宛てた長い手紙が引用されている。後に高名な社会学者となるフリードマンは、スピノザライプニッツを当初研究していた。そのためか、この手紙では両哲学者の思想が比較されている。

スタイン*7はもう読み始めていますが、彼の結論は引用されている箇所と合っていません。このことには苦もなく気がつきました。オルデンブルク宛書簡とルイ・マイエル宛書簡についての彼の注釈からして、きわめてライプニッツ的で、スピノザの考えとはまったく異質な概念が見られるのです。まず、可能的なものが現実的なものを超え出ているため、神は最善のもの(optima Respublica)である世界を組織するものとなっています。オルデンブルクに宛てた幾つかの手紙にかんする彼の注解は、ライプニッツ的な神の全栄光を既に含んでいるのです。そしてまた、概念のなかば文法的な分析と分類への執着があります。ここに執着すれば、スタインはスピノザ哲学への理解を、少なくとも部分的には自らに閉ざしてしまうことになるでしょう。(…)また、ライプニッツスピノザに抱いた興味のそもそもの始まりには、普遍記号法の着想がある、という君の仮説も、私にはきわめて興味深いものでした。君の仮説は、この時期のライプニッツがとっていた、〔スピノザへの?〕服従といらだちの入り交じった奇妙な態度を、うまく説明してくれます。ゲルハルトが著作集の第1巻の中で引用しているテクストによって、このことは完全に確認できるように思います。(…)

 どちらも〔スピノザライプニッツも〕慈愛(tendresse)を十分に受けた訳ではありません。しかし、愛(caritas)に恵まれていたのは、したがって真の精神的〔霊的〕生活を送っていたのは、— マルブランシュを含めても — やはりスピノザです。「最後に、自己の欲望を支配し得ない…人間は、なるほどその弱さのゆえに許さるべきではありますが、しかしその人間は精神の満足即ち神への認識と愛を享受することができず、必然的に滅びます。」*8これは、全体を美しくさせるためにあちこちに悪人を置く〔ライプニッツの〕神よりも受け入れやすい考えです。(p. 77-79.)

 博士論文起草に先立つこの年月、カヴァイエスは仕事がもたらす孤独に苦しめられていたようで、姉ガブリエルも彼のその滅入りようは認識していた。キリスト教団体の会合への定期的な出席は続けていた。

*1:[10/17追記]フリードマン宛書簡を加えたのに伴い、小見出しを新たに付した。

*2:有名な「カクテルの逸話」が示すように、サルトル現象学を知ったのはもっと後、1932年のことだが、サルトルにつながる現象学受容が生まれたきっかけということだろう。

*3:ブーグレとカヴァイエスの関係は、フランスにおける哲学と社会学の距離の近さを示す一つの事例と言えるだろう

*4:同じくダヴォス会議に出席したモーリス・ド・ガンディヤックによれば、カヴァイエスは次のような熱を帯びた言葉を口にしていたという。「それは真に知的な喜びであった。第一に、聴衆がハイデガーのことばを聞けたことが。彼の情熱は反論によってさらに刺激的なものとなっていた。次に、彼の学説における『現存在』の意味を印象的な仕方で定め、真理の場所と役割を形而上学的な実在性のうちで位置づけることができたことが。そして最後に、人間の有限性と無の現存を露わにさせるものとしての不安の役割が現出したことが。」(Dominique Janicaud, Heidegger en France. I Récit, Paris, Albin Michel, 2001, p. 30.)

*5:その印象は概ね好ましいものだろうが、先の手紙でレヴィナスを「フッサールハイデガーの擁護者」と述べていることから、そこには自分はそうではないこと、つまり両現象学者に対する一定程度の懸隔が既に生じていることを読み取ることもできよう。

*6:博士副論文の第一章でデュ・ボア・レイモンの仕事は言及される。

*7:Ludwig Stein, Leibniz und Spinoza. Ein Beigrag zur Entwicklungsgeschichte der Leibnizischen Philosophie, Berlin, G. Reimer, 1923のことと思われる。

*8:オルデンブルク宛の書簡78。『スピノザ往復書簡集』、畠中尚志訳、岩波文庫1958年、343頁。