Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

数学の現代的展開の研究へ—フェリエール『カヴァイエス:戦中の哲学者』要約 (3)

 実姉ガブリエル・フェリエールによる数理哲学者ジャン・カヴァイエスの評伝『ジャン・カヴァイエス ― 戦中の哲学者 1903-1944』(Gabrielle Ferrières, Jean Cavaillès. Un philosophe dans la guerre 1903-1944 [1950], Paris, Félin, 2003)の要約、本日は第4章の前半をお届けする。前回の続き、1927年の夏からである。

第4章 兵役(前半)

 エコル・ノルマルを卒業後、カヴァイエスはドイツ滞在の計画を立てたが、兵役の都合上、一ヶ月しかいることができなかった。一ヶ月の間彼はベルリンで過ごし、足繁くあちこちを回った。国立図書館で確率論の諸資料にあたり、この時期にフェリックス・クラインを読んでいる。そしてベルリン滞在後、幹部候補生に対して課せられた授業に従うべく、彼はサン・シール・レコールの陸軍学校に向かった。

 1927年から翌28年の冬の間、兵役中のカヴァイエスはそれでも読書の時間を確保していた。そして28年の1月くらいまでは、彼は確率論についてのディプロムを仕上げることを、そしてそのディプロムに確率論を彼の博士主論文とするのに十分なほどの豊かさを与えることを検討していた。しかし彼はこの計画に長いこと立ち止まることはなかった。フッサールの著作と集合論についてのボレルの著作が彼の研究方針に影響を持ち始めていたのだ。そして彼は師であるブランシュヴィックとの対話の後で、ベルヌーイの確率論研究から集合論の形成へと、自身の博士主論文の主題を変更することに決める〔実際には、これは博士「副」論文の主題となる〕。以下は彼が姉に書いた28年4月の手紙からの抜粋である。

(…)しばらくの間、私は、19世紀確率論の検討にうんざりしていました。それは長くなるおそれがありましたし、私の関心のある観点からは大きな成果がありませんでした。その観点とは、展開中の数学的思考の研究、その創造のメカニズム、そしておそらくは — 幾分ユートピア的ですが — 数学の展開を必然的な仕方で命じる隠された条件、といったものです。確率論には数学的技法としてはほとんど独創性がありません、むしろあるのは応用であって、このことは私を物理学の方へと引っ張っていくおそれがありました。(…)しかし土曜日〔ブランシュヴィックと話した日〕、私は集合論についての可能な仕事について話すのをおさえることができませんでした。数学における集合論の役割は19世紀において最重要なものですし、私が最近ちょっと研究しただけでも、集合論は私の心をとらえました。〔しかし〕私をまた尻込みさせたものは、その研究の本質的に数学的な難しさであり、(…)あまりに多くの人が ― とりわけてラッセル、クーチュラといった19世紀終わり、20世紀初頭の全ての論理学者が ― この土壌で既に足踏みをしているということへの恐れなのです。しかしブランシュヴィックはすぐに私の話を止め、そして、我々が賛同している方法はこの領域にこれまで適用されたことは決してなかったことを主張し、私の計画にすぐに乗ってきたのです。(p. 69)

前回の投稿記事中に、「知的なものの創造という問題」にカヴァイエスらが達しようとしていた、という手紙の一節があった。ここではその問題が「展開中の数学的思考の研究」「その創造のメカニズム」そして「数学の展開を必然的な仕方で命じる隠された条件」といった仕方で、数学の〈現代的な〉展開のさなかで追跡されることが主張されている。また、最後の一文に登場する「我々が賛同している方法」の内実は気にかかるところであるが、広い意味での「エピステモロジー的(科学認識論的)」方法である、ということは間違いないだろう。〕

 なお確率論研究は後年、別種の形で一つの論文として結実する。それが「コレクティフから賭けへ」(« Du collectif au pari », Revue de métaphysique et de morale, 1940, p. 139-163)である。

 今回「フッサール」の固有名が出てきたが、次回はカヴァイエスがそのフッサールと、そしてハイデガーの姿を見たときの話となる。「それがいつ、どの機会でか」はフランス哲学に通じられている方なら察することができるだろう。