Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

フッサールと会う—フェリエール『カヴァイエス:戦中の哲学者』要約 (6)

 実姉ガブリエル・フェリエールによる数理哲学者カヴァイエスの評伝『ジャン・カヴァイエス ― 戦中の哲学者 1903-1944』(Gabrielle Ferrières, Jean Cavaillès. Un philosophe dans la guerre 1903-1944 [1950], Paris, Félin, 2003)の要約、今回は第5章の後半である。前回の最後で、カヴァイエスは数学者フレンケルに、カントールデデキント往復書簡の所在について尋ねた。今回は返信を受け取るところから始まる。

 なおこれまで訳者補足は亀甲括弧で加えてきたが、ブログということもあり、読みやすさを重視してもう少し自由に記していこうと思う。

 

第5章 ロックフェラー奨学金(後半)

ゲッティンゲンへ

 手紙の返事で、フレンケルはカントールデデキントとの間で交わされた手紙の一部がゲッティンゲンに残っているだろうことを示唆している(その返信は本書に掲載されていない)。カヴァイエスは後に、その往復書簡を読むことになる。そして、「当時集合論についての最良の本を書いたシェーンフリースが草稿の内に有益な何ものも見つけられなかったとカントールの娘に言われました(…)」(1931年8月の手紙)*1という不安に反し、この往復書簡を読むことで、集合論の起源を解明する関心はカヴァイエスの中で高まる。実際、この往復書簡は彼の集合論史研究の中でしばしば参照されることになるだろう。

 カヴァイエスはその後ゲッティンゲンに向かう。そこで彼はヘルムート・ハッセ(Helmut Hasse, 1898-1979)と、エミー・ネーター(Emmy Noether, 1882-1935)の歓迎を受けている(これがカヴァイエス最初のゲッティンゲン滞在と思われる)。彼はこの滞在時、ネーターとの共同作業で『カントールデデキント往復書簡』を公刊することを構想する。このプロジェクトはネーターの没後、1937年に実現することになる。
 なおこの頃、カヴァイエスデデキントの三つの定理を証明しようとしている。本人の弁によれば、この証明の一つはある朝、覚醒手前の寝ぼけ眼の状態のときにふと閃いたのだと言う。その証明は「デデキントによって与えられた有限集合の第二定義について(Sur la deuxième définition des ensembles finis donnée par Dedekind)」と題された論文にまとめられ、Fundamenta mathematicae1932年の号に掲載された。

 1930年のクリスマスをカヴァイエスは家族と過ごすことができず、かつての先生と一緒に過ごす。その後再びハンブルクに戻り研究を再開した。当時は主に数論を勉強していたようだ。「無数の論文がありますが、退屈するということはありません」(1931年1月の手紙)。

 次の2月3日付の手紙は、当時のカヴァイエスの政治的立場、信仰、数学への考えが混じりあった仕方で提示されており、興味深いものだ。

私は宗教的な社会主義者、ワグナー牧師と今週知り合いました。彼は私を二時間近く引き止めました。知的で、非常に几帳面で、その上きわめて良識ある人です(あまりにも良識的なのです。彼は真の宗教的な社会主義者ではありませんでした。最初私は、私たちがマルクス主義と宗教をあまりに内密に混ぜ合わせていることについて完全に一致しているので残念だ、と彼に言うのを抑えることができませんでした。二つの物事〔あるいは「マルクス主義と宗教という二つのこと」〕は関係し合うことなしに、同時に真であり得ます。「神の栄光のためにすべてをなしたまえ」を濫用することはあまりに容易なことです。真理のどんな探究も宗教的特徴を帯びますが、この意味で、マルクス主義者であることはキリスト教的でもあり、これは例えば、次のように言うことがキリスト教的であるのと同様です。「カントールクロネッカーより正しいと。これは、クロネッカーが悪きキリスト教徒であったと言うためではありません。それでも、生のうちで本来的で特有に宗教的なものの圏域を判別しないのは、やはりソフィスムです)。(p. 97)

 カヴァイエスは後年、マルクス主義(とヘーゲル)に距離を取るようになるが、この時期はマルクス主義に近い立場を採っていたのかもしれない。

ミュンヘンにて

 同年2月、彼は研究を完成させるためにハンブルクを離れる。彼はまずミュンヘンに行き、そこで知り合いとヒトラーについて話し、3月にはヒトラーの演説を実際に聞いている。以下は1931年3月26日の手紙である。

昨晩、私はヒトラーが話すのを聞きました。それは大きなビアレストラン、ハッカーブラウ(Hackerbrau)での懇話会で、彼は内政のことしか話ませんでした。自軍〔突撃隊SAのことか〕による国会の全権委任の問題が彼の気にかかっていたようです*2。というのも明らかに、復帰する(rentrer)*3手段を探し出さないといけないからです。今のところ、12年に及ぶ議員の不正を糾弾することで、彼は雷鳴のような拍手喝采を巻き起こしています。(…)(p. 99)

 またミュンヘンではPrzywara*4と対談し、彼からハイデガーの講義に出るように勧められている。
 そして4月末、夏学期が始まる時期に彼はフライブルクへ向かい、ハイデガーの講義に出席する*5

フッサールとの会見

 この時期の手紙にはフッサールの名前が久々に登場する。

「昨夜、私はフッサールについてのセミナーに出席しました。それほど優れたセミナーではありませんでしたが、知っておいたほうがよい話題についての議論がありました。(…)私はフッサールの読解を続けています。彼の著作について十分知り、7月に彼と話せるようになりたいと思っています。(…)」(6月9日の手紙;p. 104-5)
「私はフッサールの論理学を読み続けています。哲学に対する彼の一般的方法は恐らく有益でしょうが、彼がそこから引き出す体系は、ブランシュヴィックらが私にしみこませたようなものとはひどくかけ離れています(…)。」(6月15日の手紙;p. 105)

 そして彼はフライブルクを去る前に、フッサールと会う決心をする。フッサールはカヴァイエスと、フライブルクから30キロ離れたSaint-Morgenで会う約束をした。以下は会見の模様をつづった31年8月4日の手紙の抜粋である。

彼の自尊心は心に触れるものではありましたが少々痛ましくもありました。彼は自分をガリレオデカルトに比していました。「50年、少なくとも100年のうちに — 私は誇張はしたくはないが — 、ただ一つの研究されるべき哲学しかもはや存在しなくなるだろう。すなわちそれは現象学だ。あらゆる科学者は、自らの研究に入る前に現象学から始めるだろう。というのも普遍的な知として、現象学はあらゆる科学の基礎を与えるはずだからだ。もっとも、現象学がこれまでなしてきたこと、それはこっけいなほどわずかだ。しかし時間と忍耐の問題にすぎない。(…)」この厳格さに私は苦痛を覚えました。最後に、私は無意識の残酷さから彼に、あなたの学説を正しく説明してくれるドイツの教授がいるかどうかを尋ねました(…)。 — 「どこにもいない」。声と顔全体の中に不意に現れたこの苦しみは、私に次のように言っていました、すなわち、自分の高弟であり後継者でもあるハイデガーが自分から多くの人を奪い去っていたのだ、結果、今や自分はほとんど一人である、と(…)。私は憂鬱になりました(…)。(p. 106-7)

 否定的なトーンではあるものの、カヴァイエスはこれを機にフッサール現象学に興味を失った訳ではない。むしろ彼はその短い生涯において一貫して現象学を重視し、批判的な視座からではあるが検討を続けた。その知的格闘は後続する章からも分かってくるであろう。

*1:ここで出てきたシェーンフリースとは数学者のアルトゥール・モーリッツ・シェーンフリース(Arthur Moritz Schoenflies, 1853-1928)のことだろう。カヴァイエスは博士副論文で彼の仕事を参照している。

*2:全権委任法は3月23日に成立している。

*3:この « rentrer » のニュアンスはよく分からない。

*4:Erich Przywara, 1889-1972のこと。フランス語のWikipediaのサイトはこちら

*5:ハイデガーの1931年夏学期講義の題目は「アリストテレス形而上学』第9巻」。