今回はドロシー・L・セイヤーズの『五匹の赤い鰊』(1931)を、ある一点に絞り、ごく簡単に検討したい(最近復刊されたようだ)。参照するのは浅羽莢子訳(創元推理文庫、1996年)である。
【以下、本作の真相に触れる。】
真田啓介氏言うところの「多重解決」を思わせる趣向——厳密にはそうでないが——を含む本作は、多面的に論じえよう。だが、ここでは〈ネガティブ・クルー〉の発生という評者の現在の関心に沿って扱うことにする。
被害者キャンベルの描いていた絵には、「下の早瀬の茶色と白のあちこちに赤みを投じている」(39頁)とある通り、「白」の絵の具が使われている。だが彼の持っていた絵の具のチューブのリスト(40頁)を見ると、そこには「フレーク・ホワイトのチューブ」が不在である。ピータ・ウィムジイ卿はここから、「犯人はうっかりこのチューブをいつも自分が入れている場所に入れてしまったのだ」と推理する。
ここには一見して、「現場に不在のもの(ここではフレーク・ホワイトのチューブ)が手がかりである」という〈ネガティブ・クルー〉が潜んでいるように思われる。だが、厳密にはこれは〈ネガティブ・クルー〉ではない。この主張を、1.評者の考えるこの手がかりの定義と、2.本作の提示の仕方、以上の二点から裏付けておこう。
1.〈ネガティブ・クルー〉をどう考えるか
クリスティー、とりわけてクイーンにおいて多様に用いられるこの手がかりの特徴は、解明部以前にそこに手がかりがあることが記述されない点にある。例えばクイーンに関する以前の記事を参照してほしいが、事件現場に何かが欠けていることを、そしてそれが事件解明につながる手がかりであることを、探偵エラリーが最後に指摘するのである。
つまり、「ネガティブ・クルー」と「クルー(手がかり)」の語を含んでいるとはいえ、叙述上の水準でみれば、それは「伏線」なのである。「不在化した伏線」——それを探偵が手がかりとして読むこと、ここにクリスティーやクイーン作品におけるこの記号の重要な役割がある。
*これは「ネガティブ・クルー」の狭義の定義であり、より広く定義を取ることも可能であろう。ここでは探偵小説の様々な記号発生のプロセスを考えるという目的から、定義を狭く取ることのメリットを優先する。
2.本作の提示手法
対して『五匹の赤い鰊』では、厳密にはこの不在が伏線化していない。第一に、ウィムジイ卿が何かを捜している様が描かれていること(41-43頁、45-46頁)、第二により決定的なことに、ウィムジイ卿が述べる「捜している物とその理由」を意図的に書き手が省略すると——「頭のいい読者諸君は詳細を聞くまでもない」と読者に挑戦しながら——明言していること(44頁)である。
この第二点目がなければ、「不在のフレーク・ホワイトのチューブ」をネガティブ・クルーと呼んでもよいかもしれない。だがこの書き手による但し書きは、ウィムジイ卿が捜している物の重要性を読者に喚起する(それが勿論書き手の狙いだ)。これが、厳密な意味で不在が伏線化しておらず、それゆえ〈ネガティブ・クルー〉と言い難い、と評者が判断する理由なのである。
本作のこの手がかりと、先行作との興味深い差異も挙げておこう。以前も分析したブラウン神父ものの短編*1では、「多くの物に共通して不在な何か」を見抜くことが重要なポイントとなっていた。言い換えれば、「多くの物が作る集合」の「補集合」を考えることがそこでは枢要であった*2。だが『五匹の赤い鰊』では、何に注目すべきかは特定されない。絵の具のチューブなのか、それとも全く別のものをウィムジイ卿が捜しているのかは、読者が推理するしかないのである。
この点で本作は、ブラウン神父ものの短編と〈ネガティブ・クルー〉ものとの中間に位置するような、手がかりの提示と叙述がなされていると言うことができるかもしれない。
終わりに
ここではクリスティーとクイーンを引き合いに出しつつ、セイヤーズの作品を検討した。だが、何も明確な〈ネガティブ・クルー〉を提示しなかったからといって、これは彼女が同時代に活躍した両者より劣った探偵小説作家である、ということを意味してはいない。このような中間的形態の存在が、探偵小説の生成を考える上で重要であることには疑いを入れない。また〈ネガティブ・クルー〉の問題に還元されない本作の持つ過剰さや、本作以降長大化していくことになるセイヤーズの作品群は、現在の日本の探偵小説の傾向をある仕方で先取りしているとも言える。こうした彼女の個性についてはまた改めて考察していくことにしたい。