Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

ホワットダニットへの助走:アガサ・クリスティー『書斎の死体』

 2023年最初に取り上げる作品は、アガサ・クリスティーの『書斎の死体』(1942)である。本作を幾つかの先行作品と比較・検討する作業は興味深いものと思われるが、本記事ではまず簡単に、この秀作の特筆すべき点を取り上げておきたい。

 参照するのはクリスティー文庫版(山本やよい訳、2004年)である。

 

【以下、本作の真相に触れる。】

 

 

1.手がかりとミス・ディレクションの隣接性

 まず些細な点から始めよう。この作品の中盤で少年ピーターは、「ルビーの爪がジョージーのショールに引っかかって折れてしまったこと」(187頁)と「部屋の外に出ていたバートレットの靴紐を取っておいたこと」(188頁)を立て続けに述べる。前者は重要な手がかりであるが(実際ミス・マープルによって途中で言及される)、後者は解明部では何の言及もされない — すなわちミス・ディレクションである。

 これは以前『杉の柩』(1940)を論じた際に立てた、クリスティー文学を特徴づけるのではないかと思われる仮説、〈手がかりとミス・ディレクションの判別困難性〉の一展開とみなせるであろう。つまり、手がかりとミス・ディレクションを隣り合わせることで、どちらが手がかりでどちらがミス・ディレクションなのか(あるいは両方とも手がかりなのか、ミス・ディレクションなのか)判然とさせなくする、という技法である。

 とはいえ、ここでのミス・ディレクションはそれほど上手いものではなく(少年ピーターは具体的な疑惑をもってバートレットの靴紐を盗んだ訳ではない)、「手がかりとミス・ディレクションを隣り合わせることで判別困難にさせる」ことは、残念ながらそれほど鮮やかに決まってはいない。だがこの技法は後期作品群に入り、より洗練され、作品の中心的な部分を担うようになっていくと思われる。

2.偽の手がかり?

 本作では、犯人の一人ジョージー(ジョゼフィン・ターナー)が、被害者ルビー・キーンのハンドバックに男性=バジル・ブレイクの写真を入れておき、彼を犯人と見せかけるよう捜査陣を誤導する。これは、エラリー・クイーン言うところの「偽の手がかり」に当たるものである。

 だがクリスティーの場合、クイーンとはその使い方 — 探偵小説文学としての機能 — がまったく異なっているように思える。

 クイーンの場合、それは手がかりとして明示される。その明示的な手がかりから、探偵エラリーは犯人の筋書きに沿った推理をするよう誤導されていくことになる。だがクリスティーの場合、それはそもそも手がかりなのかどうか判然としない、という特徴をとる。これは前のセクションで述べた、〈手がかりとミス・ディレクションの判別困難性〉と密接な関わりをもつものだ。本作においては、「ルビー・キーンのハンドバックに入っていた写真」(281頁)は手がかりなのか、ミス・ディレクションなのか判然としない、という叙述上の特徴がまずは優位となる。そこに、「犯人が捜査陣を誤導しようとした」というトリックが重ね合わされていく。手がかりかミス・ディレクションかよく分からないという、この叙述面での浮動性はクリスティー固有のものであり、「手がかり」であることを明示するクイーンと異なった、彼女の探偵小説作家としての資質をよく物語っている。

3.ホワットダニットへ

 この作品のメイン・トリックは「二人の被害者の入れ替え」である。書斎で見つかったルビー・キーンと思われた死体は実はパメラ・リーヴズであり、パメラと思われていた焼死体こそルビーであった。本作の前半において、事件の謎は「書斎の死体=ルビー・キーンを殺したのは誰か、そしてなぜ彼女の死体がバントリー家の書斎に置かれたのか」という形をとる。だが、この謎自体がミス・ディレクションである。そもそも書斎の死体はルビーではなかったのだから、謎は正しく立てられていない。謎そのものを変更する形で、ミス・マープルの謎解きはなされる。

 このような「正しく立てられていない謎」は何も探偵小説、ミステリーにおいて珍しいものではない。だがクリスティー作品のある傾向の中に置いたとき、本作のこの特徴は興味深いものとなる。その傾向とは「ホワットダニット」である。詳細は『バートラム・ホテルにて』(1965)を検討した記事を参照してほしいが、クリスティー流のホワットダニットとは、「そもそも何が謎なのか?」という仕方で探偵と読者に「適切な謎化」を問うものである。それゆえ、『書斎の死体』における「正しく立てられていない謎」は、この「そもそも何を謎として立てるのか」というホワットダニットの問題圏への助走、あるいはスプリング・ボードとみなせるように思えるのである。