Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

ある反転的展開:鮎川哲也『りら荘事件』

 今回取り上げるのは鮎川哲也の『りら荘事件』(単行本1958)である。この長編は紛れもない傑作であり、それどころか、同著者の『黒いトランク』(1956)と並び、探偵小説というジャンルの最高峰に位置する作品と言える。この作品を、最近の複数の記事に共通する視角 — すなわちチェスタトンの『ブラウン神父の無心』における「隠す」と「見えない」の問題 — から、ここでは論じてみたい。また併せて(これは関係が見えやすいところであろうが)、前回検討したクリスティーの『ABC殺人事件』にも言及する。

 今回読み返したのは文華新書から出た「旧版」なので、まずはそこから引用し頁数を示す。その上で、現在入手可能な「新版」(加筆されたこの版の方が、最後の殺人の処理など作品としての完成度は上がっている)の頁数を、鮎川が最後に手を入れたという講談社文庫版(1992)からスラッシュの後に示す*1

 

【以下、本作及び『ブラウン神父の無心』、そして『ABC殺人事件』の真相に触れる。】

 

1.ABCと123

 私は前回の投稿で、連続殺人事件の被害者を姓のA, B, Cのアルファベット順に選んでいく、クリスティーの『ABC殺人事件』を、「見立て殺人」そのものではないにせよ、「見立て」から物語性などを抜き去り、〈順序構造〉だけを残したものだと指摘した上で、この事件の構造を「シークエンス殺人」と呼んだ。連続殺人が、アルファベットであれ、自然数であれ、ともあれ何らかの順序構造に対応づけられているような事件を、「列」を意味する「シークエンス」で特徴付けた訳である。

 スペードのAから始まり、同じスートの2, 3, …が死体の傍に順に置かれていく『りら荘事件』は、勿論のこと「シークエンス殺人」ものに属する。それどころか、「シークエンス殺人」の備える〈順序構造〉を、これほどまでに鮮やかにミス・ディレクションとして用い、探偵小説として結実させた作品は他にないのではないかとさえ思われる。次節ではその点を詳しく検討しよう。

2.(1, 2, 3)→(0, 2, 1)

 〈シークエンス殺人をミス・ディレクションとして活用する〉、その見事な達成はとりわけスペードのAから3までが置かれる、最初の3つの事件に見られる。ここではとりわけ「スペードのA」の札が置かれた最初の事件に注目しよう。

 犯人・尼リリスは、転落死している「炭焼き」の死体を偶然見つけ、その死体に自分のレインコートを被せ、「スペードのA」の札を傍に置くことで、連続殺人事件の(Aに対応する)最初の被害者に見せかけ、死亡推定時刻にアリバイのある自分を容疑者の外におくことを企む。要するに、「事件と関係のない人物の死体を順序構造の1要素とすることで、事件の被害者に見せかける」訳である。この着想の卓抜性は、チェスタトンの名作「折れた剣」及び「見えない人」と比較するといっそう際立つ。

「折れた剣」との対比

 こちらの記事に書いたように、「折れた剣」では、「事件のしるし(切っ先の折れた剣が入った殺人死体)を事件でないもの(戦場の死体)の山に埋めることで、しるしを隠す」ことが意図されていた*2。しかしここでは逆に、「事件のしるしでないもの(転落死体)を事件の列(昇順に置かれたトランプのカードと死体)に埋めることで、事件のしるしに見せかける」ことが狙われているのである。

 要するに、『りら荘事件』のスペードのAと炭焼きの死体は、「折れた剣」の逆トリックなのである。

「見えない人」との対比

 他方、この着想は解明前後の変化に注目すれば、「解明までは連続殺人事件に関係すると思われていた人物(被害者)が、実は連続殺人事件と関係ない人物と判明する」ということになる。これはよく見ると、探偵小説の代表的な叙述技法であるミス・ディレクション(の基本型)— 解明までは事件に関係すると思われていた記号が、事件と無関係であるなものであることが判明する — と並行的な関係にある。要するに、ミス・ディレクションが登場人物の役割へと主題化(事件内に対象化)され、「ミス・ディレクション機能の登場人物(被害者)化」とでもいう事態が起こっているのである。

 他方、詳細は著書にゆずるが*3チェスタトンの「見えない人」においては、むしろ「伏線機能の登場人物(犯人)化」とでもいうべき事態が生じている。既にポオの「モルグ街の殺人」にも登場している「伏線」とは、簡明に言えば、「事件に関係しないと思われていた記号が、解明の場面において遡行的に事件の記号となる」というものであり、いわば〈可能態としての記号〉である。そして「見えない人」における犯人である郵便配達人もまた、群衆の中に溶け込んで見えなくなる〈可能態としての人物〉なのである。

 つまるところ、『りら荘事件』の「炭焼き」とは、「見えない人」ならぬ「見させられる人」とでもいうべき存在なのである。

 以上、「折れた剣」と「見えない人」との比較から、本作の探偵小説史上の意義は次のようにまとめられる。〈スペードのAが置かれた炭焼きの死体〉という仕方で、『りら荘事件』は「折れた剣」と「見えない人」を反転的に展開したのである。簡単に図示しておこう。

   

 「折れた剣」→『ABC殺人事件』→『りら荘事件』

        シークエンス殺人 (ミス・ディレクション機能の人物化)

 「見えない人」(伏線機能の人物化)

                     ※ここでは、黄色で反転性を表現している。

スペードの2とスペードの3

 犯人・尼リリスが殺人を起こしたのは、それゆえ炭焼きの死体偽装より後である。そして、「スペードの3」を置いた橘殺しが最初の殺人であり、「スペードの2」を置いた松平紗絽女殺しが2番目の殺人なのである(「語り」においても後者が先に記述される)。尼はトランプのカードを逆に配置することを軸に様々な技法を組み合わせることで、「橘君と紗絽女さんの殺害を逆にみせる」のであり、これこそ「犯人の根本のトリック」(247頁/360頁)なのである。〈順序構造〉を供えた「シークエンス殺人」の構造を逆用する、見事な着想である*4

 それにしても、この「スペードの2と3」だけでも当時としては斬新な趣向であった筈だが、これに「スペードのA」を組み合わせる創意たるや、1958年のものとは到底思えない複雑さ、そして解明部分のプレゼンテーションの見事さである。驚くべき作品という他ない。

3.「2番目の殺人」に関する叙述について

 前節でも見たように、松平紗絽女は語り(物語言説)の上では「2番目に現れた死体」であり、ストーリー(物語内容)においては、「2番目に殺された死体」である。このズレを用いて仕掛けられた以下の叙述は重要であろう。

第二回目の殺人はこうして遂行された。(62頁/85頁)

犯人はこうして第二回目の殺人に成功したのである。(75頁/104頁)

そして何より章題にある「第二の殺人」。これらはいずれも読んでいく過程では「炭焼き殺しが最初の殺人であり、松平紗絽女は2番目」と読者に思わせるのであるが、解明箇所においては「炭焼きは殺されたのではなく、橘殺しが最初の殺人であり、松平紗絽女は2番目」となるのである。これは「第二回目」という叙述の指示対象が(炭焼き→松平)から(橘→松平)へと変化するということで、〈指示対象が変化することで意味が変化する〉記述であると言ってよい。

 さてこれが誰かの発話としてなされていれば、それは「ダブルミーニング」ということになる。しかしここは「地の文」である*5。とすると、これはいわゆる「叙述トリック」と関係があるのではないか、という疑念が浮かぶかもしれない。かつてこちらの記事で少し書いたものの、いまだ叙述トリックの形成過程については考察を進めていないのだが、さしあたりこの疑念には否定的に答えたい。すなわち、『りら荘事件』に「叙述トリック」が含まれている、と考えることは適切ではない

 「叙述トリック」とは暫定的に、〈作中の探偵が読むことができず、読者のみが読むことのできる記述を通して、読者が作中の事件とは別の事件を前者に重ね合わせうるようなもの〉と言っておこう。しかし『りら荘事件』では、上記の記述は、あくまでも「橘君と紗絽女さんの殺害を逆にみせる」という「犯人の根本のトリック」ー そこにはトランプのカードだけでなく、鮎とペンナイフを用いた時間工作や色盲トリックも含まれる ー を、記述の上からさらに支える、というものだ。いうなれば、この記述は作中のメイン・トリックを援護するミス・ディレクションであり、それ自身で自立した(読者のみが読みうる)別の事件を構成している訳ではない。それゆえ、確かに叙述的な誤導ではあるが、それを「叙述トリック」と呼ぶことは適切でない、と思われるのである*6

 

 以上、ポイントを絞ってではあるが、『りら荘事件』が探偵小説の形成に果たした役割を一定程度浮かび上がらせることができたと思われる。この記事で分析した趣向は、近年の作品においても、様々に形を変えて用いられている。その意味で、本作の高度な達成は、今では探偵小説の基層をなしていると言えるだろう。

 

*6/13 誤字修正。

*1:文華新書版のタイトルは『リラ荘殺人事件』であるが、初出のタイトルが『りら荘事件』であったこと、また鮎川哲也がとりわけ初期においては「ひらがなにすると7文字」のタイトルを好んでいたということ(この好みが書かれている文献を今すぐは思い出せないのだが)、以上2点から『りら荘事件』と記す。

*2:法月綸太郎が指摘しているように、この企図を時間軸に変換したものがクリスティーの『ABC殺人事件』である。先の記事を参照。

*3:中村大介『数理と哲学:カヴァイエスとエピステモロジーの系譜』、青土社、2021年、補論、376-377頁。

*4:なお最後に、もう一人の犯人・日高が5人を殺した尼を殺す訳だが、とりわけ新版では「溺殺」というこれまでにない殺人方法を実行することで、かの女は〈多様な殺人のヴァラエティを遂行する同一犯〉による「いままでの連続殺人の一環であることをそれとなく強調」(新版388頁)しようとする。これは「殺人犯を連続殺人の被害者の一つに見せかける」ということであり、「無関係な死体を連続殺人の被害者の一つに見せかける」という尼の発想と相補的である。

*5:この作品は多視点的な作品であり、上記2つの記述も誰かの内的発話であり、地の文ではないかもしれない、という疑問はありうる。この点については次注を参照。

*6:仮に、上記2つの叙述が誰かの内的発話であるとした場合、これらの「第二回目」は先述したように「ダブル・ミーニング」ということになるだろう。むしろ、叙述的な誤導・仕掛けなのか、発話に関わるダブル・ミーニングなのか、明確にしえないという点に、これらの叙述の特徴があるのかもしれない(どちらにせよ矛盾が出てくるわけではなく、この特徴は探偵小説としての欠点には当たらない)。