Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

アラスの城塞と墓地

 九月の頭にフランス北部の街、アラス(Arras)に行ってきた。ここは対ナチスレジスタンス活動の最中に捕まった哲学者、ジャン・カヴァイエス(Jean Cavaillès, 1903-1944)が亡くなった場所である。自分の研究している哲学者の足跡を辿ること(フランス語で言うところの « pèlerinage »)の意味合いも勿論あるが、もう少し強い動機から、一度訪れておこうと思った(彼の人生における様々な活動にも関心があるためだが、いずれきちんとその動機を話す機会があるだろう)。

 今回行ったのは、アラスの城塞(Citadelle d'Arras)と墓地(Cimetière d'Arras)である。それぞれ簡単に報告する。

1.アラスの城塞

 これは、アラスの地がスペイン領ネーデルランドからフランスに取り戻されて後、1668年から1672年の間に智将ヴォーバンの手によって建てられた城塞である。現在は市の中心部から、無料バスで行くことができる。この城塞で、第二次世界大戦中にレジスタンス運動に参加した200人余りの人物が、ナチス・ドイツによって処刑された。カヴァイエスもその一人である。

城塞の正門

 カヴァイエスの遺体は同じく1944年4月に殺された12人と共に、フランス解放後に発見された。そして第二次世界大戦後、この城塞の庭の一角に「銃殺された者たちの壁(Mur des Fusillés)」が作られた。この壁には、抵抗運動のためにドイツに捕まり、この城塞で銃殺された者たちの名前を彫った石版200枚以上が並べられている。

 これがカヴァイエスの名が彫られた石板である。O. C. Mとは、« Organisation Civilie et Militaire » の略で、フランス北部の占領地域で活動していた「民間および軍事組織」のことである。彼は初め、南部の非占領地域で活動組織「解放」をエマニュエル・ダスティエらと共に立ち上げたが、北部の活動にもすぐに関わるようになっていった*1

 なおこの壁を含む一角は、彼ら、彼女らの活動に捧げられたものであり、カヴァイエスを含めたレジスタンスの人たちが処刑された場所ではない。処刑された場所は、この城塞の周囲の「森」の中である。この森は現在、ほとんどが立ち入り禁止の環境保護区なっているが、歩ける場所もある。私もしばらく散策した。

2.アラスの墓地

 カヴァイエスの遺体は1944年10月23日に城塞で発見された後、いったんアラスの墓地に移される。当初は身元不明で「無名五号(Inconnu N°5)」と記された墓標があるだけだったが、姉ガブリエル・フェリエールにより、その遺体がカヴァイエスであることが確認された。

 墓地はアラスの駅から、街の中心部とは反対方向に1キロほど離れたところにある。城塞の次に、私はそちらに向かった。

 ここの受付の方二人に私は墓地に来た経緯を話し、カヴァイエスの遺体がどこら辺りに埋められていたか、記載か手がかりはないだろうか、と尋ねた。こういうときフランス人は非常に親身になって探してくれる。デジタル・データだけでなく、1944-45年の古いファイルも取り出して調べてくれた。昔はやはり記載もいい加減だったとのことで、それらしき記述は見当たらない。詳しい方がいる、とのことで電話して聞いてくれたが、ヴァカンス中にもかかわらず対応してくれたその方もやはり分からない、とのことだった。

 姉フェリエールが書いたカヴァイエスの伝記 Jean Cavaillès. Un philosophe dans la guerre 1903-1944 の最後に、カヴァイエスの埋められていた場所の近くに「白いバラ」が咲いていた、という記述がある。私は80年も前のことだとは承知でその話を最後に持ち出し、墓地のどこかに白いバラが咲いていないだろうか、と尋ねた。係の人からは、確かにそれは手がかりの一つになりうるが、それだけでは特定できない、との返答を受けた。

墓地のほぼ中央、キリストの像が立つ小丘から。ここにも白いバラは植えられていたが……。

 係の方は最後に、もし何か分かったら私のメールアドレスもしくは携帯電話まで連絡をする、と言ってくれた。カヴァイエスは他の遺体も含めて12人まとめて墓地に移されたのではないか、と考えられるので、この点をきちんと伝えておけば、それに類した記述が見つかったかもしれない。しかしひとまずのアラス行きの成果としては、これで良しとしなければならないだろう*2

 次フランスに来たときは、カヴァイエスの生まれた村サン=メクサン(少し調べたいことがある)、そして可能ならば彼が遺作を執筆した監獄のあった、サン・ポール・デイジョーに行ってみたいと思っている。

*1:この石板の位置が分かる写真も撮ったが、いずれこの地を訪れる人のために、ここにその写真は載せないでおく。

*2:アラスの墓地には、戦死者の墓が並ぶ一角がある。この戦死者とは、フランスなので勿論、第一次世界大戦のときのものである。« Français inconnu(無名のフランス人)» と書かれたものも含む、三桁に及ぶ墓標がそこには並ぶ。アラスは「アラスの戦い」とも呼ばれる、第一次世界大戦の激戦地であり、街も有名な鐘楼も含め、多くが破壊された(街の美術館でそのときの写真を見ることができる)。フランス語で文字通り「大戦(La grande Guerre)」と呼ばれる、この戦争のヨーロッパにおける特別な意味を感じることのできる街でもある。

迷霧としてのテクスト:アガサ・クリスティー『ホロー荘の殺人』

 『ホロー荘の殺人』(1946)は、アガサ・クリスティーの全盛期と言える1940年代に書かれた傑作である。この記事では、ミス・ディレクションの機能を主軸にした分析によって、本作がクリスティーの最高点の一つをマークした作品でもあることを示せればと思う。

 参照するのはハヤカワ文庫版(中村能三訳、2003年)である。丸括弧内の数字は同書の頁数を指す。

 

【以下、本作の真相に触れる。】

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文字か図像か、真実か偽装か:アガサ・クリスティー『NかMか』

 今回はトミー&タペンスものの長編第二作、『NかMか』(1941)を取り上げる。第一作『秘密機関』(1922)からの大きな飛躍を示したこの作品は、全盛期クリスティーの優れた叙述の才が、エスピオナージュ(・パロディ)において発揮された傑作である。ここでは大きく二つの点から、この作品を検討する。

 使用するテクストはハヤカワ文庫版(深町眞理子訳、2004年)である。必要に応じてHarperCollinsのペーパーバック版(2015年)を参照する。

 

【以下、作品の真相に触れる。】

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第二期の出立:アガサ・クリスティー『エッジウェア卿の死』

 今回は『エッジウェア卿の死』(1933)を考察する。この作品は、独創的なトリックを、1940年代のクリスティー全盛期へと通ずる優れた探偵小説の記号群によって支える構造になっており、かなりの秀作である(もっと後の時期の作品と言われてもおかしくない出来映えと言える)。ここではトリック、および伏線やミス・ディレクションといった叙述の面に注目しつつ、三つの節に分けて検討する。

 参照するテクストは福島正美訳(クリスティー文庫、2004年)である。

 

【以下、本作の真相に触れる。】

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三つの細やかな変奏:アガサ・クリスティー『メソポタミヤの殺人』

 今回取り上げるのは、アガサ・クリスティーの『メソポタミヤの殺人』(1936)である。この長編は傑作とも秀作とも言い難いが、それでもこの時期の彼女の試みが分かる、興味深い佳品である。ここでは、本作を三つの先行作との関係で簡単に論じたい。

 参照するのはハヤカワ文庫版(高橋豊訳、1976年)である。

 

【以下、本作の真相に触れる。】

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探偵小説の過去と現在:フーコーの思想から

 『現代ミステリとは何か:二〇一〇年代の探偵作家たち』(南雲堂、2023年)を読み、色々と触発されたため、最近の日本の探偵小説、ミステリーについて漠然と考えてきたことを、ここでまとめておきたい。私は本書で論じられている「二〇一〇年代」の作品群を多数読み、それらに通じている訳ではなく、それゆえ以下の議論においても、考えが及んでいないところはあるだろう。ただ哲学・思想の研究者として、広い時間的パースペクティブから最近の諸傾向を点検してみることには、何か益することはあると思われる(少なくとも議論の叩き台くらいにはなろう)。この記事では——ありふれた選択であるが——ミシェル・フーコーの観点を採用して考察する。

 第一節では、一九世紀半ばに登場した探偵小説の、黎明期・古典期の大雑把な特徴をフーコーの『監獄の誕生:監視と処罰』(1975)周辺の諸着想を踏まえて取り出す。その上で第二節で、再び彼の哲学を参照しつつ、近年の探偵小説の二つの傾向に対して、ごく簡単な予備的考察を試みたい。

  • 1.過去
    • 1-1. 名探偵の古典的肖像(1)
    • 1-2. 真相を告げること
    • 1-3. 名探偵の古典的肖像(2)
  • 2.現在
    • 2-1. 生権力の地殻変動
    • 2-2. 知的バトルものについて
    • 2-3. 特殊設定ものについて
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paradigme / exemplaritéの概念的変遷(1):プラトン

 記事のタイトルにある paradigme / exemplarité はいずれもフランス語だが、それぞれ、前者は古代ギリシアプラトンに端を発する語 παρἀδειγμα に、後者はラテン語 exemplar に、その起源をもつ。後者のラテン語は前者のギリシア語の翻訳に当たる語であるが、しかしこれら二つの概念は哲学史において、交錯しつつも微妙に異なった命運を辿ったように思える。

 それぞれの概念史に目下関心があり*1、ブログにてまとめる記事を何回かに分けて投稿する。まずは paradigme 系列の概念を、次に exemplarité 系列のそれを点検する。今回は最初ということで、無論のこと、プラトンの著作に出てくる"παρἀδειγμα"(パラデイグマ)がテーマである。『プラトン全集別巻:総索引』(岩波、1978年)を手引きに、この語の登場箇所を一通りチェックした。主要な使い方は以下の三つである。

1.範例、類例、手本となる例

 この意味で使用されている箇所が最も多い(全体の半分はこの用法と言ってよい)。典型——というよりも、むしろこの語の「範例」用法の「範例」——は、後期著作『ポリティコス』に見られる。

「子供たちが〔…〕色々な字母を正しく理解していた場合の音節がいくつかあった訳であるが、子供たちをまず第一にこれらの音節に、改めてよく注意させるのだ。それからこのように改めて注意させた上で、子供たちがまだ十分にはよく理解していない字母の結合体の前へ、子供たちをつれてくるのだ。そして、これら両種の、理解されている方と理解されていない方との結合体のいずれにおいても、そこに含まれている字母ががんらい果たすべき機能は類似した同一不変なものなのだということを、比較を繰り返すことで子供たちに呑み込ませるのだ。このような指導を続けていけば、ついには字母の結合体のうちの、子供たちが知らないものの全部のわきに、子供たちが正確に理解している結合体が、並べて示されるはずだ。そしてこの後者の結合体は、このようなかたちで示されるとき初めて、類例というものになってくるのだ。」(278A-B)

 ここで言われているのは、〈既知の字母の結合体=綴りを範例として、他の未知の綴りの中にある同じ字母の結合体が、同一の機能をもっている〉と、子どもに理解させるということである。この箇所では、「知らないものの全部のわきに」という一節が注目される。すなわち、一つの事例に過ぎないが、しかし模範となる例=範例と比較することで、他の事例も理解される訳だ。範例とはしたがって「比較」を基本的に前提する。

2.範型、原型、模範、手本、モデル(イデア論的文脈)

 前節の「範例」と並ぶ重要な意味。まずは『ティマイオス』から引用しよう。

2-1. 『ティマイオス

「前の話題では、あの二つのもの——つまり、一つはモデルとして仮定されたもの・理性の対象となるもの・常に同一を保つものであり、第二は、モデルの模写に当たるところのもの・生成するもの・可視的なものだったのですが——この二つだけで十分間に合っていました」(48E-49A)

 簡単に言えば、「モデルとその似像」の関係ということだが、ここでは特に「パラデイグマとしてのモデル」は、模倣されるべきイデアという意味で用いられている。

2-2. 『国家』

 後期著作ばかり続いたので、中期著作も見ておこう。『国家』から引用する。

「一般の多くの人々にしても、われわれがこうして哲学者について語っている事柄がほんとうであると気がつくならば、それでもなお哲学者たちにきつく当り、われわれの説を信じないままでいるだろうか——神的な模範(範型)を用いて描く画家たちが一国の輪郭をかたどるのでなければ、国家は決して幸せになることはできないだろうという、このわれわれの説を?」(VI499E-500E)

 ここに登場する「模範(範型)」とは、イデアそのものなのか、それともイデアを分有し、空間的・時間的に規定された理想像であるのか、という点には解釈上の論争がある*2。模倣すべきものがイデアそのものであれ、イデアを分有した理想像であれ、ともかくこの箇所ではイデア論的文脈が前提とされている、ということが分かれば今は十分である。

3.範型、原型、模範、手本、モデル(非イデア論的文脈)

 最後に、「モデルとその似像」という点では前節と同じ関係ではあるが、イデア論の文脈以外で用いられている箇所も、念のため引用だけしておこう。『ソピステス』の一節である。

「私がこの技術〔真似る技術〕のうちに見るものの一つは、似像(模写物)を作る技術なのだ。これが成立するのは、とりわけ次のような場合である。すなわち、似たものを作り上げるにあたって、長さと幅と深さにおいて原物がもっている釣り合いにこれを合致させ、さらに加えてそれぞれの部分にふさわしい着色をほどこすというやり方をとる場合が、それだ」(235E-236A)

 以上三つが、プラトンの著作に見られる"παρἀδειγμα"(パラデイグマ)という語の使い方の「パターン」である*3一つの事例でありながら、他の諸事例に対する模範となるという意味での「範例」と、イデア論的文脈であれそうでないのであれ)似像に対するモデルという意味での「範型」、 παρἀδειγμα の含んでいたこの両義性が、今後重要な役割を演じることになるように思える。そして次回、プラトンの次に取り上げるのは、勿論アリストテレスにおけるこの語の使い方である。

 

【7/11 補足・初期著作について】

 初期著作について補足しておこう。初期に関しては、「1.範例、類例、手本となる例」の使用例がほとんどを占める。二つだけ見ておこう。まずは『ソクラテスの弁明』から。

「人間の知恵というようなものは、何かもうまるで価値のないものなのだということを、この神託の中で、神は言おうとしているのかもしれません。そしてそれは、ここにいるこのソクラテスのことを言っているように見えるのですが、私の名前は、つけたしに用いているだけのようです。つまり私を一例にとって、人間たちよ、おまえたちのうちで、一番知恵のある者というのは、誰でもソクラテスのように、自分は知恵に対しては、実際は何の値打ちもないものなのだということを知った者が、それなのだと、言おうとしているようなものです。」(23A-B)

 もう一つは『ラケス』の次の箇所である。

「もし、皆さん自身が、そのような技〔若者たちを教育する技〕を見つけ出した人であってのことであれば、いままで他にどのような人たちの面倒を見て、つまらぬ人間から立派でよき人間になさったことがあるのか、その見本をみせて下さい。」(187A)

 イデア論的文脈での「範型」(つまり上の2)がほとんど使われていないのは、プラトン対話篇の思想の展開を鑑みれば、当然のことだろう*4。対して、「非」イデア論的文脈での「模範」(上の3)に関しては次のような用例がある。『プロタゴラス』である。

「子供たちが先生の手を離れると、彼らが自分の好き勝手にでたらめな振る舞いをしないように、今度は国家が、法律を学びその規範に従って生きることを要求する。」(326D)

*1:この関心の背景を少しだけ明かしてしまおう。数理哲学においては、カヴァイエスが数学の生成のさなかで「パラディグム(paradigme)」が登場すると述べている。対して、美学や文学——広い意味での「フィクション」——においては、カントが『判断力批判』で美的判断における「範例的(exemplarisch)」必然性について論及し、また時代がくだってデリダは「範例性(exemplarité)」概念を自身の文学論において重視している。こうした哲学者の考えを導きの糸に、数理における「パラディグム」と、フィクションにおける「範例性」をいわば二つの極とするような哲学が構想可能なのではないか。

*2:藤沢令夫『イデアと世界:哲学の基本問題』、岩波書店、1980年、第2章、および小田部胤久「カント『判断力批判』における〈範例性〉をめぐって:paradeigma/exemplarをめぐる小史」、『美学芸術学研究』、35号、2016年を参照。

*3:『総索引』にはもう一つ、目に見えぬ実在を学ぶための「模型」という意味も挙げられている。『国家』の次の箇所である。 「天空を飾る模様〔星〕は、そうした目に見えぬ実在を目指して学ぶための模型としてこそ、これを用いなければならない〔…〕」(VII529D)

*4:ただし『総索引』では、『エウテュプロン』の次の箇所が挙げられている。

その相〔すべての敬虔がそれによってなりたつところの単一の相〕それ自体がいったい何であるかを僕に教えてくれたまえ。ぼくがそれに注目し、それを基準として用いることによって、君なり他の誰かなりが行う行為のうちで、それと同様のものは敬虔であるとして、それと同様でないものは敬虔でないと明言することができるようにね」(6E)