昨日より始めた、実姉ガブリエル・フェリエールによる数理哲学者ジャン・カヴァイエスの評伝『ジャン・カヴァイエス ― 戦中の哲学者 1903-1944』(Gabrielle Ferrières, Jean Cavaillès. Un philosophe dans la guerre 1903-1944 [1950], Paris, Félin, 2003)の要約、今日はその第二弾である。今回は彼がエコル・ノルマル(高等師範学校)に入学後の日々を、学業編と宗教生活編の二つに大まかに分けて簡単にまとめる。まだまだ話は序の口である。なお中村による補足は註、および亀甲括弧内でおこなう。
第3章 エコル・ノルマル
1. 学業編
1923年秋、カヴァイエスはエコル・ノルマルに入学する。23年から24年の冬にかけて、彼は一般物理学の資格証書の準備をすると共に、エミール・ブレイエ(Émile Bréhier, 1876-1952)の講義に出席する。この講義の一幕に関して、彼は手紙を姉に宛てて書いている。引用してみよう。
ブレイエ氏のところで議論中、僕は突如口出ししてブランシュヴィック的観念論への信仰を熱く表明しようとしてしまいました。後で思い返せば、これはちょっと滑稽なことです。(…)ブレイエ氏も僕の仲間も、話している問題にして与えるべき解答を持っていませんでしたが、しかし彼らは僕に対する明白な優越感を抱いていました、それは単に、彼らが何も主張しなかったからなのです。人はいつも、反論を加えている相手に対しては優位に立つものです — そして反論されているその人は被告人の役割を演じ、しかも自己弁護する訳です。(…)(p. 51)
この手紙で出てきた「ブランシュヴィック」とは無論、社会の現実を見ず、講壇的な哲学に終始するとして、後にポール・ニザンによって「ソルボンヌの番犬」と揶揄されたレオン・ブランシュヴィック(Léon Brunschvicg, 1869-1944)のことである〔カヴァイエスとブランシュヴィックの思想的関係には後年隔たりが生じるが、このときは親近性を強く感じていたようだ〕。
さて数学の学士号に哲学のアグレガシオンを加えたカヴァイエスはエコル・ノルマルで四年間を過ごさねばならなくなったが、1925年の終わり頃、彼はそのブランシュヴィックに自身の高等教育免状を指導してもらうよう頼んだ。ブランシュヴィックが選んだテーマは「ベルヌーイにおける確率計算の哲学とその応用」であり、カヴァイエスはこのテーマに当初余り関心を示していなかった。だが1926年4月ごろにはそれも変わったようだ*1。
アグレガシオンは彼をうんざりさせたようで、そのことを嘆く手紙も書いている。また作者である姉は、彼の中に生真面目でねばり強い仕事ぶりを見ようとする者に対して、それは彼の引きこもった孤独な見かけにだまされているのだと注意している。実際、彼は姉と一緒に観劇に出かけたり、コンサートに行ったりしていたようだし、ヴァレリーを読み、政治に対して常に熱中していたという。「生命に満ちた若木がそうであるように、彼はあらゆる方向へと枝を伸ばしていたのだ」(p. 53)。
2. 宗教生活編
カヴァイエスはエコル・ノルマル時代、プロテスタント起源のキリスト教団体に所属し、活動していた。その団体は、フェリエールの目からすると、ペレ(Perret)という(同じくノルマリアンの)カトリックの人物によってその精神を代表されていた。彼の話によると、カヴァイエスはほぼ全ての集まりに参加していたが、進んで口を開くことはあまりなかったという。しかしそれでも例えば兵役から戻った1928年より後(兵役時の話は次章に譲る)、彼は会合に招かれたガブリエル・マルセル(Gabriel Marcel, 1889-1973)に激しく反論を加えたこともあったという*2。ここで、ペレ氏がフェリエールに後年語った、当時の宗教的状況を示す興味深い逸話を紹介しておこう。
(…)カヴァイエスは離脱(détachement)に関する福音主義的な幾つかのテクストを集めていました。それは、聖十字架のヨハネが我々の小さなグループでは、力強い誘惑を発揮していた時代でした。私にはそう思えたのですが、私たちは十字架のヨハネのうちに、本質へと導かれる単純化された生のプログラムを(…)探し求めていました。私たちは、十字架のヨハネが私たちに提示する(…)全的消去(effacement total)の視点を愛していたのです。カヴァイエスはこうした主題について進んで話そうとはしませんでした。 普段の会話では、彼はこの手のことについては、苛立たせるようなものだとして、嫌味でもって自分の立場を表明するのが常でした。この夕べ〔1930年2月11日の祭儀〕では、彼は自分の考えを示さなければならないことに驚くほど困惑していると同時に、言い落としも容赦も無しにその考えを示すよう否応なく導かれていったのです。すべての言葉が代わる代わる根こぎにされたもの(arrachér)として現れてきました——視線は聖書に注がれたまま、あるいは支えを求めるかのように私たちの一人にしばしば注がれたままでした。(p. 55)
ペレはカヴァイエスの態度に「自己忘却(oubli de soi)」に関わる曲げることのない態度を見出しているが、この時期、聖十字架のヨハネがエコル・ノルマル内で魅惑的な存在であったということは時代的な証言として重要であろう。〔ジャン・バリュジ(Jean Baruzi, 1881-1953)が博士論文として聖十字架のヨハネに関する大著『聖十字架のヨハネと神秘経験の問題(Saint Jean de la Croix et le problème de l'expériene mystique)』(1924)を出したということが大きいのだろうが、十字架のヨハネへの関心は、第一次世界大戦後のフランスの宗教的気分を幾ばくか表すものであるようにも思われる。なおジャック・ラカンやアンリ・コルバンもバリュジの講義に出席している。〕
さて、この団体活動とは別に、彼は社会学専攻のシャルル・ル・クール(Charles Le Cœur)、ジャック・モノー(Jacques Monod)— 生物物理学者のモノーとは別人 — と共に「伝道研究(études missionaires)」という活動を組織している。この二人との関係はカヴァイエスにとっても特別なものだったらしい。特にシャルル・ル・クールは、カヴァイエスのレジスタンス活動時の記述にも登場する。以下はル・クールの兄弟が、カヴァイエスの姉に書いた文章の一部である。
シャルルはあなたの弟の友達以上の存在でした。(…)カヴァイエスとモノーとの結びつきの中で、シャルルは彼の考えの根本と同時に生きることの意味をも見出したのです。(…)文法、語の創造的価値についてのシャルルの仕事はカヴァイエスの仕事と奇妙なことに合流するように思えます。二人とも認識の問題を追い越し、知的なものの創造(la création de l'intelligible)という問題に達しようとしていたのです。(p. 59-60)
〔「知的なものの創造という問題」は今後のカヴァイエスの歩みを考える上で重要であり、記憶に留めておいて欲しい。〕このように、エコル・ノルマル主席入学の責任を感じ、勉強に追われていたカヴァイエスだが、宗教活動にも力を入れていたようである。そして1927年、彼はアグレガシオンの準備に専念し、7月に無事突破する。そしてこの後、彼は4年間で初めてエコル・ノルマルを離れたのである。
なおこの伝記の筆者であるカヴァイエスの姉ガブリエルは1926年に婚約している。相手は製造所の技師だった。
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次回以降、博士論文のテーマ確定や有名なダヴォス講演への参加など、徐々にこの時代を特徴付けた哲学者や数学者が登場する。楽しみにしていただきたい。