Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

レジスタンス活動の開始—フェリエール『カヴァイエス:戦中の哲学者』要約 (11)

 実姉ガブリエル・フェリエールによる数理哲学者カヴァイエスの評伝『ジャン・カヴァイエス ― 戦中の哲学者 1903-1944』(Gabrielle Ferrières, Jean Cavaillès. Un philosophe dans la guerre 1903-1944 [1950], Paris, Félin, 2003)の要約、今回は第10章の前半である。

 レジスタンス活動が始まる。

第10章 レジスタンスと虜囚(前半)

組織化と〈魔〉

 1940年11月の新年度から、カヴァイエスはクレルモン・フェランに一時的に退避していたストラスブール大学助教授の職に就く。この地で彼のレジスタンス活動の芽は胚胎することになる。

 翌41年1月にエマニュエル・ダスティエ(Emmanuel D’Astier)と学部の同僚スパニアン(Samuel Spanien, 1896-1952)— ヴィシー政権に逮捕されたレオン・ブルムの弁護士 — らと話し出したのが始まりであった。その運動は「解放(Libération)」の名を取り、少しずつ生長して行った。3月にはダスティエと共に「解放」の最初のチラシを起草し、この執筆活動は徐々に新聞の作成へと拡大して行った*1

 彼はこの冬既に、フランス内を走るナチス占領地区と非占領地区との境界線の抜け道に通じるようになっていた。カバンの中には「南部解放」の何号かを入れ、北部でも同様のプロパガンダ運動を組織するのに協力していた。

 春、カヴァイエスはブラジルに行ったルネ・ポワリエの後任として、パリ・ソルボンヌの代理教師に任命される。パリにおいても彼の周囲に、レジスタンスの幾つかの細胞組織が結集しつつあった。彼が当地で作った最初の組織は、土木局総監、鉄道技師、義兄の同僚二人、医師、そしてソルボンヌの一般物理学教授ロカール(Yves Rocard, 1903-1992)など、多様なメンバーからなっていた。カヴァイエスはこの組織を、パリを超えて、ベルギーも含む他の占領地域へと拡大する計画を練っていた。

 ここで差し挟まれる、カヴァイエスレジスタンス活動に関する姉フェリエールの以下の所見は興味深い。

 彼は自分のした旅行を語るのが好きだったし、幼少期の快活さを取り戻しては、私たちとドイツ人ごっこをして楽しんだものだった。彼の友達の一人は、レジスタンスはジャンにとっての夏の休暇だった、と言っていた。しかしこれは正しくない。自分の犯している危険を重々承知しながら、かつて選んだ最良の生き方を投げ打って、ジャンは戦いへと身を投じることを決意したのである。彼はこの新たなる義務の達成の内にこそ、敗北の苦しみへの気晴らしを見出したのだ。彼はまた「導かれて(conduit)」もいた。ここで彼が戦前に書いた、布教研究に関する一節を引用しておこう。

 

「何も備えないというのはあまりに拙速である。その上我々は完全に導かれて(menés)いるのだ…。しかしともあれ努力の有無にかかわらず、聖人の完成をもたらそうとする者の道において、今日の必然的な進展は果たされることになろう」(Jean Cavaillès, « Le monde non chrétien », Cahiers de Foi et Vie, 1931)。

 

 我々は完全に導かれている…

 ジャンもまた導かれていたのだ、しかも彼が真実であると感じるもの ― 彼はこれを「自分の魔(démon)」と呼び、彼は終生この魔から逃れられなかった ― の命令的な呼びかけによって。(p. 179)

 カヴァイエスが自身の中に感じるこの〈魔〉の存在については、今後も出てくることがあるだろう。

カンギレムとの再会、師への手紙

 戦争とレジスタンスが、カヴァイエス自身がそれまで自分の中で無視して来た彼の本性の一つである、リーダーとしての資質を開示したことは間違いない、とフェリエールは書いている。

 続く1941年夏、彼は自身が組織した南部のレジスタンス・グループと再び長く接触することができた。9月にはフェリエールがヴァカンスを過ごしていたシャンボン=シュール=リニョンに来て、そこで旧友であるカンギレム(Georges Canguilhem, 1904-1995)と再会している。カヴァイエスはこの友の内に知的な類縁性を見出していた。1941年5月以来ストラスブールの講座でカヴァイエスを補佐していたカンギレムは、カヴァイエスと共にレジスタンス活動に参加していたのである。このヴァカンス期間についてのカンギレムの手紙によれば、彼らは社会主義の未来についても議論したが、あまり楽天的になれなかったらしい。

 夏が終わりパリに戻ると、カヴァイエスは11月からソルボンヌ大学の教員兼レジスタンスのリーダーという二重生活を送り始める。以下は、エクス=アン=プロヴァンスに退避している師ブランシュヴィックに、彼が自由領域滞在中に宛てた手紙である。『数学的経験』という著作を予告するこの手紙は、カヴァイエスの数理哲学・科学哲学を研究する者には良く知られている。 

あなたの考えがどれほど私たちの中に残り続けているか(特にエコル・ノルマルの小さな〈饗宴〉の中に)、あなたもご存知でしょう。私たちはそこで、時間と空間の長さと広大さを学びました。そして『数理哲学の諸段階』、『人間的経験と物理的因果性』、『意識の進展』といったあなたの著作が順繰りに姿を現したのでした。トラン・デュク・タオフッサールについての素晴らしい論文を私に見せてくれました。それは少々ヘーゲル化された、あるいはフィンク化されたフッサールです。そしてタオには、未編集の何千頁という遺稿の閲覧が許可されたため、私は彼に、この休暇中に少し深めるよう助言しました。皆何かを出版したいところです……もし紙があれば。ご存知のように二つの雑誌が休刊となりました。私は『哲学雑誌(Revue philosophique)』のために、クリーネ、チャーチの最近の仕事に関する、そしてとりわけて、選択公理連続体仮説が他の集合論の公理と無矛盾であることを超限帰納法によって保証するゲーデルの素晴らしい定理に関する、まとまった長さの論文を書きました*2。つまり、直観の上昇が問題となっています。しかしもはや紙が残っていないのです。『数学的経験』も眠ったままです。私はこのことに半ばですが苛立っています。ですがその前に私は、超越論的論理学に対する、とりわけてフッサールのそれ(タオの学位論文が立ち戻らせる機会を与えてくれました)に対する古くからの論争に、取り組もうとしていたのでしょう。フッサールの『危機』には、コギトの少しばかりの濫用があります。そして作用の様々な記述が重ねあわされるところにも濫用と不安がつきまとっています……。(p. 182)

 1941-42年の冬、カヴァイエスは集中して色々な仕事をこなした。午前中は個人的なことや授業の準備に当て、午後になると外出した。この頃、ソルボンヌで若き哲学者の論理学の授業に出席している学生たちは、この人が脱走したこともある元囚人であり、フランス・レジスタンス運動を率いているのだとは疑いもしなかった。そしてまた逆に、レジスタンス活動のためにやってくる連絡係は、この人がフランス哲学の輝かしい代表者の一人であるなどとは知る由もなかった。

*1:著作『パリは解放された』では、ダスティエによるカヴァイエス像を読むことができる

*2:これが死後刊行された論文「超限数と連続体(Transfini et continu)」である。