実姉ガブリエル・フェリエールによる数理哲学者カヴァイエスの評伝『ジャン・カヴァイエス ― 戦中の哲学者 1903-1944』(Gabrielle Ferrières, Jean Cavaillès. Un philosophe dans la guerre 1903-1944 [1950], Paris, Félin, 2003)の要約、今回は第13章をお届けする。残るはあと一章である。
前章の最後、フェリエールはレジスタンス活動に打ち込んでいたカヴァイエスと、パリで印象的な会話を交わした。本章はその一週間後の出来事から始まる。
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第13章 監獄にて
ドイツ警察の逮捕
1943年8月28日、フェリエール夫妻は夕食を共にすべくカヴァイエス宅を訪れた。すると突然、見知らぬ男がリボルバーを片手に扉を開けた。ドイツ警察である。フェリエールは試煉の時*1がとうとうやってきたのだと感じた。
彼女の不安の一つは、組織網で経済情報部を当時統括していた自分の夫マルセルが、よりによってこのとき、暗号化する前の重要書類を持って来ていたことだった。家宅捜索が続く中、目だけでお互いの不安を語り合う。彼は、あたかも自然なことのように、台所に行って食事を温め直したいんだけど、と要求した。見張りは興味なさそうに認めると、拳銃片手に私たちについてきた。そしてフェリエールがガスをひねると、彼女の夫はすばやく書類を火の中にくべてしまった。警察は激昂したが、書類はもはや役に立たないものになっていた。
フェリエール夫妻は車に押し込められ、ラスパイユ大通りにあるケイレ・ホテル(hôtel Cayré)まで連れて行かれた。大広間に通されると、ドイツ警察がいて、しばらくするとティエリー*2とカヴァイエスも通された。マルセルがカヴァイエス宛の手紙を持っていたため、フェリエール夫婦の加担は否定しようがなかった。エレヴェーターまで連れていかれると、全員お互いにばらばらにされた。「今や組織全体は手中にある!」警察は感極まって叫んだ。
カヴァイエスはドイツの大佐に伴われていて一人連れて行かれた。フェリエールは、質問者の足踏み、叫び声、殴打を頭上で一晩中聞くことになった。
後でカヴァイエスがマルセルに語ったところによれば、質問していたのはファン・デ・カステーレ(Van de Casteele)大佐であった。彼はカヴァイエスにまず、自分がフランスにおけるドイツ諜報部のトップであること、1939-40年の戦争中はフランス警察にクレルモン=フェランで捕まり、死刑を求刑されたが、休戦が彼の命を救ったことなどを述べた。「私は、君が今されているよりもはるかにひどいやり方で拷問されたのだ。ゲシュタポに捕まらなかったことを幸せに思うんだな」。
最後に彼は尋ねた。「いつからレジスタンス活動に参加したのだ」。カヴァイエスは暴力的なドイツ軍のやり方に憤りを示すべきだと考え、― そしておそらくは自身の密かな直観に基づいて ― 次のように答えた。「同僚パロディが死んだと分かったときさ」。続く大佐の反応を聞いて、カヴァイエスは彼が嘘を吐いたことが分かった。「しかし君も知っていると思うが、私たちは彼を殺したりなんてしていない。彼は自殺したんだ、と請け合っておこう」。要するに、これがルネ・パロディ(René Parodi, 1904-1942)*3の死刑執行人の応答だった。
フレンヌへの移送
夜明け、〔ヴァル=ド=マルヌ県の〕フレンヌにある監獄へ向けて全員が移送された。全部で七人であった。フェリエールは29日、独房196番に入った。入ると、上の独房と密かなやりとりを交わすことができ、彼女はその見えない存在からの思いやりに一人ではない、と感じることができた。
彼女は二ヶ月間独房の中だったが、こうした密かな友情に支えられた。特に大胆な若き女性弁護士である197番とは毎朝やりとりをした。そんなある晩、「明日男性が15人処刑されるらしい。祈りましょう」という女性の声を聞く。その中に夫と弟がいるかもしれない……。しかし三ヶ月後、カヴァイエスの無事を耳にする。そしてその頃、彼女は独房から、四人の女性と同じ部屋に移されると共に、ある司祭と知り合う。この司祭は、マルセルとカヴァイエスに会って来たと言い、二人とも元気で、あなたによろしくと言っていた、とフェリエールに告げてくれた。
去り際、彼は勾留者に配っている瞑想的な宗教冊子を取り出した。その冊子のタイトルは、「神よ、なぜ我を見捨てたもうたのですか」であった。そして司祭は述べた。「弟さんはあなたにこう言ってくれと私に頼みました、僕はこのことをずっと考えていたんだ、と」。
二度ほど尋問された後、五ヶ月後フェリエールは釈放される。そして住んでいたソッセー通り(rue des Saussaies)で、彼女は自分の尋問員*4に再会した。カヴァイエスとマルセルも指導していたこの男はこう言った。「お分かりだと思いますが、私はあなたのご主人と弟さんの道徳的資質を高く買っています。でも残念ながら、決定を下すのは私ではないのです。お約束できるのは、彼らは銃殺されることはないだろう、ということです。私たちは諜報活動の罪で殺したりはしません。しかし収容所送りになるでしょうし、それは死よりも悲惨なことです」。
釈放されてから二日後、カヴァイエス姉弟のおば ― 彼女はフレンヌにおける二人の荷物の引受人だった ― は見知らぬ手で書かれた一通の手紙を受け取った。「マダム、一人の囚人がコンピエーニュ駅のプラットホームで、あなたの住所と次のような言葉を残して行きました。以下が書き写しです。『僕たちはフレンヌを離れてコンピエーニュの収容所にきた。また時間が経ったら多分ドイツへ向けて出発する。心身の調子は良い。マルセルとジャンより』」。
少し経って、マルセルはこのおばに手紙を書き、フェリエールもそれを読むことができた。移送されるだろう、と彼は書いていた。幸いにもフェリエールは返事を書くことができた。
だが、カヴァイエスからは何の知らせもなかった。フェリエールは弟のケースは夫マルセルのものより重い、と思っていたので、驚きはしなかった。ジャンは「夜と霧」— 荷物も通信もないまま収容所送りにされる人たち — になったのだろう、と考えていたのだ。
*1:「試練」を「試煉」に変更した。本記事のタイトルも同様(10/15追記)。
*3:司法官でもあり、「北部解放」の立ち上げに関わった。ひとまずフランス語版Wikipediaのサイトを参照。[追記]レジスタンス体「解放」の活動を伝えるL'Ordre de Libérationのサイトには、カヴァイエスとの繋がりが記載されている。
*4:原語は « instructeur ». この語は「教育係」、「教練士官」、場合によっては「予審判事」の意味だが、カヴァイエスを最初に尋問したデ・カステーレ大佐にもこの語が当てられているため、ひとまず「尋問員」と訳した。ご意見を乞う。