Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

後期クイーンの二つの系列:『十日間の不思議』を手引きに

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 『災厄の町』以降のエラリー・クイーンの作品群、いわゆる「後期クイーン」を暫定的に二つの系列に分けてみようと思う。考察の手引きとなるのは、2月に越前敏弥氏による新訳が刊行された『十日間の不思議』(1948)だ。

 今後の研究に向けたノートのようなものだが、以下、『十日間の不思議』の核心を含め、『災厄の町』、『九尾の猫』、『ダブル・ダブル』、『悪の起源』、『最後の一撃』、そして前期作品だが『Yの悲劇』の内容には幾ばくか触れざるを得ない。注意してほしい。

【以下、諸作品の真相に触れる】

 

 『十日間の不思議』では、「九日目」の章で、ハワードのおこなった諸行為がモーゼの「十戒」で禁じられている行為をなぞっていたことが指摘され、最後の「十日目」で、ほとんどの行為がハワードの父ディードリッチによる誘導・差し向けであったことが明かされる。彼は探偵エラリーにハワードの行為が「十戒」の禁止に該当していることを推理させることで、それによりハワードを自殺に追い込み、犯罪を完遂する。

 いま、「後期クイーン的問題」はひとまず脇に置いて、この「十戒へのなぞらえ」に注目しよう。後期クイーンの作品群には、こうした「行為やメッセージが別の筋書きに一旦なぞらえらえる」もの  ー しかもその筋書きはパターンこそ様々だが真犯人による「作為」である ー の系列が片方にある。そしてもう片方に、より直接的に「筋書きが予め存在しているもの」が存在する。後者、前者の順に系列をつくってみよう。

 

A系列:(『Yの悲劇』→)『災厄の町』→『九尾の猫』

B系列:『十日間の不思議』→『ダブル・ダブル』→『悪の起源』→『最後の一撃』

 

 A系列のほうが「筋書き殺人の系列」だ。これは『九尾の猫』が〈筋書き殺人の零度〉であるという、かつて行った考察に基づいている。

 さてB系列のほうだが、これは先述した通り、〈犯人作為による筋書き〉が存在するものだ。しかしこれは、ある別のモチーフの系列の言い換えでもある。そのモチーフとは「操り」である。『十日間の不思議』では犯人ディードリッチが探偵エラリーを操るわけだが、他の作品についても列挙しておこう。

ー 『ダブル・ダブル』では、エラリーに「童謡殺人」という筋書きを推理させることで、ある人物を死の恐怖に追い込む。

ー 『悪の起源』では、ロージャーが執事ウォレスを操っていた見せかけに反し、様々な事件を「進化論」という筋書きになぞらえるようロージャーに吹き込んだのはウォレスであり、ウォレスがロージャーを操っていた。

ー 『最後の一撃』では、エラリーに「20個の贈り物はフェニキア語のアルファベットを表している」という筋書きを推理させた上で、「そのようなあからさまなことを犯人がする訳がない」と推理させ、嫌疑から逃れる*1

 

 さて、こうした考察から一つのことが浮かび上がってくる。それは、後期クイーンにおける「操り」の問題は「犯人の作為による筋書き」のそれと重なるものであり、それゆえ、操り殺人の系列は筋書き殺人の系列と相補的な関係にある、ということである。 

 

 操りと筋書きが密接な関係になることに不思議はない。以前書いたように、そもそも筋書き殺人からして、「犯人が主体的に既存の筋書きを利用した」と言い切ることは難しいからだ。『Yの悲劇』の犯人は「ヴァニラ殺人事件」の梗概を利用したのだろうか、むしろその梗概に踊らされていたのではないか? ー 『災厄の町』と『九尾の猫』の犯人もまた、筋書きを利用して「自由意志」をもって殺人を犯した、などと言えるだろうか?*2

 この、筋書き殺人(A系列)における「操りと操られの本質的な区別し難さ」を主題化したのが、操り殺人(B系列)の作品群ではないか、というのがここでの暫定的な仮説だ。そしてその主題化はとりわけ『ダブル・ダブル』で一つの達成を見ているように思える*3

*1:これが「操り」と言えるかどうかに微妙な面はあるが、探偵の推理を事件計画に組み込んでいるという点で、広く「操り」に含めておく

*2:「自由意志」の語は『十日間の不思議』から借りた。「ぼくは新たな疑問を自分に投げかけました。ハワードが犯したとぼくが思っていた十の罪のうち、ほんとうに犯したものはどれか、と。そのように見せかけられた罪ではなく、押しつけられた罪ではなく ー ハワードみずからが直接犯した、自由意志による罪です。」(越前敏弥訳、ハヤカワ文庫、2021年、435-436頁)

*3:[5/5追記]あるいは二つの系列の関係は次のように言うべきだろうか。A系列は、犯人と近くにいる者が書き残した「筋書き」に則った、筋書き殺人を主題としている。その主題はまた〈操るものなき操られ殺人〉とも言える。対して、B系列では、犯人と近くにいる者が書き残したものではない十戒・童謡・進化論・フェニキア語のアルファベット、というモチーフになぞらえられた「見立て」が主題になっている。「見立て」と「筋書き」の違いは、後者は事件をなんらか「時系列で」語っているものであるのに対し、前者は時系列とかかわらないという点にある。そして「見立て」のB系列において〈操り殺人〉が前景化する。

[5/5再追記]再考してみたが、進化論にはある種の「時系列」が含まれていると言えなくもない。また「童謡」にも何かしらの「順序」は存在する。そこで、ひとまず次のように改めて特徴づけておきたい。「筋書き殺人」における「筋書き」とは、犯人と近くにいる者が残した、「作品内でのみ」通用する梗概であり、「見立て殺人」における「見立て」に使われるものとは、「作品外でも」通用する、つまり読者と一続きの世界で通用する何かである、と。