Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

二つの系列の交錯:エラリイ・クイーン 『盤面の敵』

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 エラリー・クイーン の『盤面の敵』(1963)を再読した。これは『災厄の町』以降のクイーン作品群において、特筆すべき地位をもつ作品と思われる。その「特筆すべき地位」をここでは、本作のネタを割りつつ示していきたい(訳及びページ数はハヤカワミステリ文庫の青田勝訳による)。また注において『十日間の不思議』、『ダブル・ダブル』、『悪の起源』のモチーフにも触れる。

 なお現在ではよく知られるようになった通り、本作はダネイのプロットを直接リーが書き起こしたものではなく、一度シオドア・スタージョンがそのプロットから執筆したものである*1。このハウス・ネームのようになった時期の「エラリー・クイーン」をそれまでのクイーンとどう関係づけるか、というのはクイーン研究において重要なテーマであろうが、本記事では差し当たり区別しないで扱う。ただし、この作品を読み終えた読者であれば気付くことだが、スタージョンの存在は本作のプロットと本質的に関連していように思える。

【以下、作品の真相に触れる】

*1:[追記]フランシス・M・ネヴィンズによれば、「フレッドの梗概を基に、シオドア・スタージョン(1918-85)が書きあげ、刊行前にフレッドとマニーが、スタージョンの原稿にかなりを手を入れている」とのこと(『エラリー・クイーン 推理の芸術』、飯城勇三訳、国書刊行会、2016年、320頁)。

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過渡期の秀作:エラリー・クイーン『靴に棲む老婆』

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 エラリー・クイーンの『靴に棲む老婆』(1943)を宇野利泰訳で読み返したので、備忘代わりに少し書き留めておきたい。

 以下、本作の核心だけでなく、後期のクイーンの主要作品(『十日間の不思議』、『九尾の猫』、『ダブル・ダブル』、『悪の起源』、『最後の一撃』)さらには『ギリシア棺の謎』と『Yの悲劇』についてもそのモチーフには触れてしまうので注意されたい(どれだけの人が読んでくれるんだろうか…)。

【以下、作品の真相に触れる】

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探偵小説の形成に「断絶」は存在するか:一つの仮説

 自著の合評会で受けたとある指摘を色々と考えてきたのだが、考察が徐々にまとまってきたので、ここで一旦まとめておきたい。テーマは、〈探偵小説の形成に、仮に「断絶」とでも呼ぶべきものがあるとしたら、それはどのようなものか〉である。「断絶」には無論のこと繊細な評定が必要であり、またこれから挙げるもので網羅できている訳では無い。しかし今後の研究の指標として、敢えて提出しておく。

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後期クイーンの二つの系列:『十日間の不思議』を手引きに

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 『災厄の町』以降のエラリー・クイーンの作品群、いわゆる「後期クイーン」を暫定的に二つの系列に分けてみようと思う。考察の手引きとなるのは、2月に越前敏弥氏による新訳が刊行された『十日間の不思議』(1948)だ。

 今後の研究に向けたノートのようなものだが、以下、『十日間の不思議』の核心を含め、『災厄の町』、『九尾の猫』、『ダブル・ダブル』、『悪の起源』、『最後の一撃』、そして前期作品だが『Yの悲劇』の内容には幾ばくか触れざるを得ない。注意してほしい。

【以下、諸作品の真相に触れる】

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「記述者=犯人」ものと叙述トリックの関係について

 「記述者=犯人」ものと叙述トリックの関係について、以前考えたことを備忘代わり
にまとめておく
 
 「記述者=犯人」の作品では、作品内の事件とは別に、その事件を記述すること自体が(読者にとって)事件になる、という二つの異なったレベルの「事件」が存在するように思われる。言い換えればその作品では、〈事件を起こす犯人〉と〈その事件を記述するという事件を起こす犯人〉とが重なり合っている
 そして叙述トリックとは、この重なり合いが解け、「二分化」したものではないか。すなわち、〈作中で事件を起こす犯人〉と〈その事件を記述するという事件を起こす作者〉といったように。
 この関係性が正しいとするなら、「記述者=犯人」ものは〈原〉-叙述トリックと言えるように思われる。
 
 作品内の事件と重なり合いつつも、そこから逸脱するもう一つの「事件」をどう明確化するか ー これは今後の課題である。
 
【追記】ひとまず簡単に述べれば、叙述トリックの作品においては、探偵が読む記述と読者が読む記述の間に隔たりがあり、読者は探偵と異なった記述の内容 ー 探偵小説においてはすなわち「事件」ー を、(例えば「男性と思われていた人物が実は女性だった」という形で)特定しなければならない、ということである。
 いずれにせよ、叙述トリックにおいては水準の異なる二つの(作品によってはそれ以上の)事件が存在する、という点は重要と思われる。

後期クイーン雑考:『悪の起源』と『最後の一撃』を中心に

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 一般に「後期」と言われる時期 ー『災厄の町』から『最後の一撃』まで ー におけるエラリイ・クイーンの主要作品を読み返してきた。その再読を通して思ったことを、ここに簡単に書いておきたい。この記事は雑考、あるいは備忘録のようなものであり、今後の思考のための叩き台という感じが強い点をお断りしておく。

*以下、『悪の起源』(1951)と『最後の一撃』(1958)に関するネタバレがある(『九尾の猫』と『ダブル・ダブル』の内容にも触れている)。

【以下、作品の真相に触れる】

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「見立て殺人」の記号学的考察:エラリイ・クイーン『ダブル・ダブル』を通して

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 エラリイ・クイーンの『ダブル・ダブル』(1950)を再読した。この作品の「見立て殺人」(ここでは数え歌殺人)について少し書いておきたい(最初は細かい話となる)。同作の引用は青田勝訳(ハヤカワ文庫)による。

 (1)まず探偵小説の「記述」に関するある特徴を見た上で、(2)「見立て殺人」「童謡殺人」について考える。いずれも、パースの記号学を元にした私の考えた探偵小説図式の中で検討する。

*以下はその図式を知らなくても読める筈であるが、パースの記号学に関する(特にイコン・インデックス・シンボルについての)基本的な知識は必要と思われる。

 

(1)探偵小説の事件の記述はある死体や状況を指示するものだが、この点を考えるにあたり示唆的なのが、パースによる「シンボルの退化形式」に対する考え、特に「単称的シンボル」に関する次のような考えである。

・単称的シンボル:現存する個物をその対象とする。

(例)子どもと一緒に歩いていて、私がそのある方向を指差して「あそこに風船がある」と言ったとしよう。その言葉は一つのシンボルである。しかし私は「あそこに風船がある」というシンボルを「指差す」というインデックスによって表現しており、そして私の言葉はその指標的行動によってある具体的な事実に関する情報を伝えている。

 探偵小説における「密室の中でナイフで刺された死体が転がっていた」という記述もこれと同様である。文という「命題的シンボル」がある特定の死体や個別の状況を指示する、というかたちで、命題的シンボルがインデックス的に機能することで、「単称的シンボル」になっていると言えるだろう*1

 

(2)見立て殺人においても、こうした〈命題的シンボルの単称的シンボルへの退化〉は起きている。例えばヴァン・ダインの『僧正殺人事件』(1929)では、「誰が殺したコックロビン?『私だわ』、すずめが言った、『私の弓と矢でもってコックロビンを殺したの』」という歌と同じ状況の死体が発見される。ここでも、歌におけるシンボルが特定の死体という個物を指示しているといってよい。

 しかし見立て殺人には、それ以上のものがある。それは無論、童謡や歌を通して過去・現在・未来にわたる事件全体の構造や図式が示されることだ。ところでパースによれば、構造上の類似性を示すダイアグラムや図式はイコン(類似記号)である。したがって見立て殺人において、歌における一つ一つの文は確かにインデックス的ではあっても、歌全体は複数の事件全体のイコン(類似記号)として機能するのだ、と言えるだろう*2マザーグースの童謡「昔ばあさんがおったとさ、靴のお家に住んでいた…」を用いるクイーンの『靴に棲む老婆』(1943)でも、この点に変わりはないと思われる*3

 

 さて、ここでようやく『ダブル・ダブル』の話である。本作が「数え歌殺人」として、七年前に発表された『靴に棲む老婆』とわずかだが異なる点として、個々の殺人や死体の状況を表すものが「命題」ー 歌に現れるような文 ー ではもはやなく、「名辞」ー たった一つの単語 ー になっていることが挙げられる。この本で出てくる数え歌は、

 「金持、貧乏人、乞食に泥棒…」

である。「金持」、「貧乏人」といった一つの単語がそれだけで個々の事件を指示する。数え歌全体がイコンとして機能している点は同様だが、個々の事件を指示しているのはもはや「命題」ではなく、命題をさらに分解した「名辞」なのである

【以下、本作と『九尾の猫』の核心に触れる】

*1:[2/20夕方追記]この段落の内容には問題がある。例えば、「そこに死体がある!」のような発言は、指標性を伴ったシンボルであると言えるだろうが、事件に関する記述のすべてをインデックス的と捉えるのはやはり問題があろう。しかし次の(2)にみるような、「見立て殺人における童謡の文や命題がインデックス的である」というのはもしかしたらありうるかもしれない。今後の考察事項としたい。

*2:もっとも、これはパースの記号分類からは外れた考えにも思われる。というのも、彼にとって類似性を示す図式(たとえば設計図など)は「名辞的」であって「命題的」ではないからである。この点の考察は他日を期したい。

*3:この本がどうしても見つからず、本稿を書く前に参照することができなかった。記憶で引いていることをお断りしておく。

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