Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

探偵小説の形成に「断絶」は存在するか:一つの仮説

 自著の合評会で受けたとある指摘を色々と考えてきたのだが、考察が徐々にまとまってきたので、ここで一旦まとめておきたい。テーマは、〈探偵小説の形成に、仮に「断絶」とでも呼ぶべきものがあるとしたら、それはどのようなものか〉である。「断絶」には無論のこと繊細な評定が必要であり、またこれから挙げるもので網羅できている訳では無い。しかし今後の研究の指標として、敢えて提出しておく。

記号図式と古典的探偵小説

 私は探偵小説の形成を考える上で、一つの記号図式を提出した(例えばこちらを参照)。それはパースの記号学 ー 記号・対象・読解の三項関係 ー を元にしたもので、ごく単純に言うと、記述・語り(第一次性)、事件(第二次性)、手がかり・推理(第三次性)の三つ組からなる。そして古典的な探偵小説とは、この三つがそれぞれ切り離されて成立しているような作品群のことである、とみなしている。それはもう少し言えば、記述(一次性)と推理(三次性)によって、事件内容(二次性)が定まる作品群、ということである

*もちろん、探偵小説が一つのテクストである以上、例えばバイヤールがドイルの『バスカヴィル家の犬』に対して行ったように、記述から別の推理を編み上げて別の事件内容を構成することは可能である。しかし、ここではこうした解釈の複数性、ないしテクストの開かれの問題は「いったん」脇に置く。

 私が記号図式を考えたのは、何も天下り式にこの図式に当てはめて考察するためではなかった。むしろ、この図式が変動するような局面を炙り出し、探偵小説固有の運動性を何とか明らかにするためであった。そして、こうした三つの記号学的性質がいわば掘り崩されているような〈二局面〉に、私はこれまで探偵小説の典型的な断絶を見出してきた。順に挙げよう。

二つの断絶のタイプ

A. 記述・叙述(一次性)が新たな事件(二次性)を引き起こす。アガサ・クリスティーの有名作品がその典型である。そこでは、事件内容に、記述がさらに別の事件を付け加えることになる(この有名作に関わらず、クリスティーの叙述は事件内容と多様な関係を築いているように思える)。ここからは、現在まで盛んに展開される叙述トリックの系譜も生まれることになる。要するにここでは、一次性と二次性の峻別が崩れる局面が示されている。

B. 推理(三次性)が事件(二次性)に組み込まれる。エラリー・クイーンがとりわけて後期に展開した作品群が典型である。そこでは、例えば探偵の推理を用いることで犯人が事件を完遂する。この局面では、三次性と二次性の峻別が崩れる訳だ*1

 

 さてこれら二つは、いずれも〈事件内容の重層化・多様化〉という特徴をもっている。そこでは、一次性と二次性の重なりや、三次性の二次性への組み込みにより事件内容が複雑化され、確定する。では、逆の特徴は考えられないだろうか?すなわち、〈事件内容の希薄化・曖昧化〉とでも言うべき作品群は存在しないだろうか?それは、もはや事件内容が確定されず、むしろ曖昧化やゼロ度に向かうような作品群のことだ。*2

第三のタイプ?

 存在する。それこそ、日本において「黒い水脈」と言われてきた作品群に他ならない、というのが今のところの仮説である。まだ思いついたばかりであり、おそらく不正確な見解も含まれると思うが、叩き台として以下挙げておく。

小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』におけるあの過剰な推理は、事件内容の特定のために機能しているだろうか?おそらく、そのような機能を持っていない(あるいはそのような機能に還元されない剰余をもつ)。探偵法水が推理を重ねれば重なるほど、事件内容は決まった輪郭から外れ、希薄化していくように思える(これが「文学以前の感じ」の正体だろうか)。

夢野久作の『ドグラ・マグラ』は推理ではなく逆に、記述の方から事件内容の曖昧化にアプローチした作品のように思える。

中井英夫塔晶夫)の『虚無への供物』の場合、少し難しい。しかしそれでも、後半に牟礼田の作中作が介入して以降、事件内容が複数存在するように読める、ということはしばしば指摘されてきた。ここではその点を挙げるに留めよう。

竹本健治の『匣の中の失楽』でも、その記述の構造(プロット)には事件内容の画定を妨げるような阻隔化が働いていよう。[5/16追記]

 

 これら三作品は、さきほど*の箇所で述べた、解釈の複数性やテクストの開かれを主題化することで、古典的探偵小説における事件内容の画定を解除し、事件の希薄化・曖昧化を引き受けつつもなお探偵小説であり続けることに挑戦した作品といえるかもしれない*3

最後に

 これら三つのタイプはいまだ作業仮説に過ぎない。もちろん確かめるためには、自身の仮説に拘泥せず(そこには困難が伴うのだが)、作品を一つずつ丁寧に読み、分析していく以外にない。ここでは見通しが得られたことで満足したい*4

*1:Aではクリスティーを、Bではクイーンを代表的な作家として挙げた。私見だが、文学研究者はクリスティー作品を探偵小説の代表として挙げる傾向があり、他方で日本の探偵小説評論家や思想家は1990年代以降クイーンを好んで取り上げるように思われる。しかしもし私の示した二局面が正しいのなら、それらは探偵小説の「相補的な」運動を示しており、クリスティーとクイーンは重ね合わせて評価しなければならないだろう。クリスティーの愛好家はクイーンを読むことが、クイーンを評価する者はクリスティーにも正確な評価を与えることが、探偵小説に対して豊かな言説をもたらすように思われる。

*2:事件内容とは、物語論における物語内容、すなわち物語のシニフィエに当たり、記述と推理は物語言説、すなわちシニフィアンにおおよそ当たる ー というのが今のところ物語論との関係で考えていることだ。この考えが正しいなら、使い古された表現を用いて(そして大雑把な表現であることは承知で)次のように言えることになる。AとBは、シニフィアンシニフィエになるようなタイプの作品であり、次にあげる第三のタイプとは、シニフィエなきシニフィアンを志向するようなタイプの作品であると。

*3:[5/25追記]バークリーのあの作品など、いわゆる「多重解決もの」についてもこの観点から考察する必要があるかもしれない。

*4:この記事は最初に述べた通り、合評会での指摘を踏まえた考察の成果である。その指摘がどのようなものであったかはここでは書かないが、奇しくもその指摘と一種「逆」のことを主張することになった。指摘してくれた方には感謝したい。