Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

【論文】もう一つの謎、もう一人の名犯人:アガサ・クリスティー『そして誰もいなくなった』

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  この小論の目的は、アガサ・クリスティーの代表作とされる『そして誰もいなくなった』(1939)におけるある別の事件の存在を指摘し、長らく忘れ去られてきたであろう「もう一人の名犯人」の名誉回復を試みることである。

 この作品の最終盤をよく読むと、そこには「書かれてあって当然のことが書かれていない」ことに気がつく。そしてこの「記述の不在」を一つの手がかりとして考察を進めていくと、語られざる「もう一つの事件」と、その事件を引き起こしていた一人の人物に行き当たるのである。ここではその事件の諸相と人物の動きをかなり立ち入って検討する*1

 なお「あるべきものの不在が手がかりとなる」といういわゆる〈ネガティブ・クルー〉を多用した作家と言えば、エラリー・クイーンが筆頭に挙げられる。その意味で、この小論はクリスティーのテクストのクイーン的読解と言えるかもしれない*2

*この小論と似たような読解が既にあれば、ご教示いただけると幸いである。

【以下、作品の真相に触れる】

*1:探偵小説、推理小説の「もう一つの真相」を推理するというのは、このジャンルのファンであれば多かれ少なかれしたことがあるだろう。ピエール・バイヤールは「推理批評」という形でこれをより大掛かりに行っているのだが、驚くべきことに、筆者(中村)がこの「そして誰もいなくなった」事件の再構成を終えた直後に、彼がこの小説に関する本を刊行していたことを知った。それを知ったのは10月27日の夜、友人からの電話によってである。本稿は、バイヤールのこの著作(初版2019年、そして新版がこの原稿執筆とほぼ同時期の2021年10月)を一切参照することなく書かれた。

*2:テクストは青木久惠訳(早川書房、2010年)を基本的に用い、必要に応じてこの邦訳の原書であるHarperCollinsのペイパーバック版(2003)を参照する。

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記号の乱舞:アガサ・クリスティー『五匹の子豚』

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 アガサ・クリスティーの『五匹の子豚』(1942)を再読した。言うまでもなく「大傑作」である。ここでは、1. 「謎」に関する本作独自の扱いを見た上で、2. 登場する伏線、ミスディレクションダブルミーニングのあり方を立ち入って分析したい。実際、本作に登場する乱舞ともいうべきこれら記号の多様性は、おそらくクリスティー作品史上でも驚くべき水準に達している。

 なおネタバレは2. において行うが、1. においても作品の興趣に触れる部分がある(引用、及び丸括弧内の頁付はハヤカワ文庫の山本やよい訳による)。

1. 「謎」の身分について

 日本で「ミステリー」とも呼ばれる探偵小説において、「謎」は決定的な(それでいて、それ自身きわめて謎めいた)役割を演じる。そして『五匹の子豚』における「謎」の身分は、探偵小説史上でもすぐれて興味深い、独自のものと言える。

 いやそんなことはない、謎はむしろ分かりやすく冒頭に提示されているではないか ー そう思われるかもしれない。確かに「序章」のカーラ・ルマルションの話を聞いた我々は、「キャロラインは夫クレイルを本当に殺していないのか」、「クレイルを殺した犯人は誰か」といった謎が本作を導くことを知る。それは確かにその通りである。だが、ここで探偵小説における「謎」についてもう少し考えてみる必要がある。

 実のところ、ある事象が「謎」であることが分かるのは、探偵がそれをまず指摘することを通してである。つまり ー これはTwitter上での郷原さんとのやりとりを通じて気づかされたことなのだが ー 「そこに不思議な謎がある」ということに、警察も、ワトスン役も最初は気づかないのであって、そこに注意を向けることこそ、探偵の最初の能力ということになる。この意味で、「謎」は「手がかり」と同義ではないにせよ、いわば「原−手がかり」としての役割を演じると言って良い(実際、本作においても、解決の部分でポワロは事件の「鍵」として二つの謎を挙げている)*1

 翻って『五匹の子豚』である。この作品の特徴は、我々読者が、五人の証言を聞く現場に、そして五人の手記に、探偵ポアロと共に立ち会うことにある。その際、解決編とでもいうべき第三部に至るまで、ポアロがその中で何を謎と、手がかりとみなすか、は伏せられている*2。このかなり徹底した態度は、「物的証拠」の登場する通常の事件であれば不自然に感じられることだろう。だが、過去の事件を扱う「回想の殺人」という設定は、その不自然さを回避することに成功している。

 しかしこの成功は同時に、それまでのクリスティー作品とは、あるいは他の作家の作品とは、きわめて異なった緊張感を読者に強いることになる。何を事件の手がかりとしたらよいのか、そして、出発点とすべき「謎」が何であるのか、本来であれば探偵がヒントを与えてくれるこうしたことさえ、我々は自分で考えながら読んでいかねばならないからだ。そう、本作の「謎」は、フーダニットやハウダニットといったところには実はない。そうではなくむしろ

 

 何が謎なのか

 

といういわば一つ上のレベルの「謎」が問題となっているのである。これこそ、本作の核心といってよい*3

 この謎の設定が一層興味深く、独自なものとなるのは、これが「記述」の水準に跳ね返ってくる点にある。手がかりや謎がどこにあるか明示されない、ということは、我々はどこに手がかりがあるかを記述の中で探らねばならない、ということだ。言い換えれば ー この点は中西理氏の優れたクリスティー論にとりわけ学んだことだが ー あらゆる記述が伏線かもしれないという意識を持ちつつ、読み進めざるを得ないということである。これは、探偵小説の読書経験として、かなりラディカルなものだと言えるだろう。

 次節では、この「記述」の水準、すなわち、伏線、ミスディレクションダブルミーニングといった記号がどのように登場しているのかを具体的に見ていくことにする。

【以下、作品の真相に触れる】

*1:私の作った「探偵小説の記号図式」においても(例えばこちらを参照)、謎は手がかりと同様、パースの言う「名辞」 ー 情報を与えるが、まだ命題にならない記号 ー に対応する。謎とは記述のうちに与えられるものではなく、あくまで「読まれる」ものなのである。

*2:勿論、同種の先例が存在しない訳ではない。ここでも偉大なる先達はポオである。新聞の資料などを探偵の推理なしに要約的に前半で提示する「マリー・ロジェの謎」がそれだ。

*3:私はかつてTwitterで、この「何が謎なのか」はクイーンの『十日間の不思議』において問題になっている、と呟いた。だが改めて『五匹の子豚』を読んでみると、クイーンのこの最大傑作の問題意識はまた別のところにあるように思われる。クイーンの『フォックス家の殺人』が『五匹の子豚』を踏まえているだろうことは、例えば中西理氏のこちらの記事で指摘されているが、そこから半歩踏み込んで、『十日間の不思議』と『五匹の子豚』の関係についてはいずれまとめてみたい。

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記号の不在、あるいはネガティブ・クルー:クイーン『スペイン岬の謎』と『中途の家』

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 エラリー・クイーンの諸作品で、あるべきものが「無い」ことが手がかりとなるという、いわゆる「ネガティブ・クルー」が重要な役割を演じていることは、既にフランシス・M・ネヴィンズによっても指摘されている*1。ここではこの「ネガティブ・クルー」に関連して、『スペイン岬の謎』(1935)及び『中途の家』(1936)という時期的に近接した2作品における、「記号の不在」とでもいうべき事態を簡単に考察してみたいと思う。

 探偵小説の形成過程を辿っていくと、伏線、ミスディレクション、手がかりといった記号が単純に分離できず、互いに連関し合うように展開していくことが分かる。ここで扱われるのも、そうした連関の諸事例に他ならない。

【以下、作品の真相に触れる】

*1:フランシス・M・ネヴィンズ『エラリー・クイーン 推理の芸術』(飯城勇三訳)、国書刊行会、2016年。なお無論のこと、ネガティブ・クルーのプロトタイプとでも呼ぶべきものは、ホームズの短編のアレである。

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批評的な名探偵:城塚翡翠について

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 私は相沢沙呼氏の作品『medium』および『invert』で活躍する探偵・城塚翡翠のファンである。ここでは探偵小説というジャンルにおける彼女の特殊性について、この探偵の核心に触れつつ書いていくことにする。未読の方は注意されたいが、「なんだ、作品を読んでないとこの文章は読めないのか」ー そう思われてもどうか安心して欲しい。そう思うだけで、実は彼女の魅力の半分に捉えられたことになっているのである。どうか安心して(?)作品に手を伸ばしていただきたい。

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〈ありえないこと〉にしか希望はない

 以下は今後のための走り書きである。

 

 東京2020オリンピックに際して、様々なことが「可能である」とされた。例えば開催前の時点では

ー 民間団体であるIOC東京オリンピック開催の権限はなく、それは中止することが可能である(それゆえ人間の生命を考えれば中止すべきである)。

ー 十分な対策を打てば、安全安心な開催は可能である

 開催後であれば

ー 確かにハードルは高いが、原理的には開催途中での中断は可能である*1

 「望まれ」、求められたこれら三つの可能性は、残念ながらいずれも実現しなかった。事前の中止も、安全な形での実施も(少なくとも今回のオリンピックが「安全」であったとは言えないだろう)、中断もなかった。

 こうした様々な「可能性」が断たれた。そこにはいくばくか私たちを暗澹とさせるものがあるかもしれない。だが ー 少し話を飛躍させてしまうが ー 仮に望むべき可能性がすべて尽くされてしまったとして、残るのは「絶望」なのだろうか。

 多くの人が「希望」を「小さな可能性」と、あるいは「実現へ向けて行動するに値する、ごくわずかの可能性」と等置しているように思える。だが、希望は可能性概念から手を切るべきなのではないだろうか。むしろ希望は「不可能なこと=ありえないこと」の側にしかない、そう考えてみることが必要なように思える。

 

 私たちは様々な「可能なこと」を考える。私はこれから、近くのコンビニに行くことも可能だし、車に乗って遠くに出かけることも可能である。そして「不可能なこと」には、考慮することからまったく考慮しないものまで色々とある。「今から3時間後に現在地から300キロ離れた場所にいることは、車を使っても不可能だな」とは考えても、「小説の登場人物が目の前に身体をともなって現れること」は考えもしない類の「不可能ごと」だろう。ここで、問題にしているのは、どちらかというと後者である。「私たちが自明視していてそもそも考えることができない、議論の俎上に乗せることもしない」ような、そうした「不可能なこと」くらいにひとまずは言っておこう。

 そして、そのような「不可能なこと」の内にしか希望ない ー 私はそのように言うことで、ジャン=ピエール・デュピュイの「賢明なカタストロフ論」に敬意を表しつつ、それをある仕方で逆転して使うことを考えている。

 

 デュピュイの議論によれば、カタストロフ(今は簡単に「破局的な大惨事」と思えばよい)は起こるまでは、考慮に値しない「ありえないこと(l'impossible)」だとされている。しかし起こってしまえば、それは遡行的に「起こるべくして起きた」とみなされる。彼はここを起点に、カタストロフを回避する行動に向かうための哲学を構想する。

 私が提案したいのは、彼がカタストロフについてこのように述べたことを、カタストロフ以外の事象に対して、いわば肯定的に使用することだ。つまり、逆説的に見えることを承知で言えば、現実化すべき「ありえないこと」を考えることだ。誰もが「そんなことはできない」(そもそも「できる/できない」という議論の俎上にさえ載せられないほどに「できない」)とされていることにのみ希望はある、とはそのような意味である。

*念の為述べておくが、これは「不可能を可能にする」といった標語や、企業やスポーツ、さらにはアカデミズムにおいてさえ現在頻繁に用いられる「チャレンジ」といった言葉とはおよそ無縁な考えである。これらの標語や言葉は「人間の可能性は無限だ」といった、資本主義と相性の良い考えとおそらくは密接に結びついている。むしろここで目指しているのは、こうした論理をブロックする思想である。

 

 今しがた、「現実化すべき『ありえないこと』」と述べた。そう、さらに考えるべきは、希望としての「ありえないこと」の現実化、さらに強く言えば、その現実化の必然性である*2。その現実化こそ「出来事」と呼びうる何かではないか ー この主張を十全に展開する力は今はないが、ひとまずの議論の見通しを次のようにつけておこう。ここまで語ってきた「不可能なこと」とは、「認識論的な不可能性」のように思える。つまり、事柄としては生じうるのだが、その生じうることが認識できないのだ、と(たとえば蜂起のような大きな事が生じる可能性はあるのだが、それを認識できていない、というように)*3。堅苦しく言えば、「存在論的可能性の認識論的不可能性」ということになる。だがそうではない。「生じうる可能性」は、起こった後に、事後的に過去に投射された「生じえた可能性」に過ぎないのではないか。とするならば(ここに飛躍があることは承知だが今は措く)、存在論的不可能性が存在論的可能性へとある時間性のもとで書き換えられてしまう、その隙間に「出来事」がある ー そう言ってみたくなるのである(これは勿論「生成」の問題でもある)*4。そして、その出来事にはデュピュイとまた違った意味での偶然性が孕まれている、とも。

 

 ここでラフにスケッチした内容は、フランス現代哲学で展開されてきた「不可能なこと」をめぐる様々な思索の、一つの亜種にとどまるのかもしれない(そして思弁がなお勝っていることも重々承知である)。いずれにせよ確実なのは、「可能なことを引き起こそうとする」ことが無意味ではないにせよ、それだけではもはや立ち行かなくなっている、ということだ。東京2020オリンピックをめぐる様々な言葉の群れは、少なくとも私にとって、このことを強く意識化させるのに十分なものではあった。

 

*8/10 字句一部修正。

*1:[8/10追記]これら三つの内、例えば最初と最後のものについてはTwitterで検索してみてほしい。最初のものについては「五輪 中止できる」や「五輪 中止可能」などで検索すると一定程度ヒットするし、最後のものについては「五輪 中断できる」で数こそ多くないがヒットする。勿論「エビデンス」とは言えないものだが、ひとまずの参照点とはなろう。二番目のものについては、ある時期までは傾聴すべき見解が存在したことは事実であるものの、まずは政府が繰り返し述べたあれら空虚な言葉を思い浮かべれば十分である。

*2:私は文学の中ではとりわけて探偵小説を愛好しており、またそれと並ぶ娯楽小説のジャンルであるSFも好きであるが、その理由の一つは、これらのジャンルで描かれていることの「ありえなさ」による。にもかかわらず、その「ありえなさ」のもつ現実的な力が存在するとも思っている。フィクションの哲学と関連して、この点は深めていかねばならないだろう。

*3:[8/10追記]この点、やや走り書きに過ぎたようで再考が必要だろう。デュピュイの議論をより正確に見れば、「カタストロフが起きる可能性は認識されているが、それを信じて回避する行動を取ることができない」となるからだ。

*4:[8/10追記]それゆえ本記事のタイトルとして、「不可能なこと」ではなく、存在論的不可能性を含意する「ありえないこと」が選ばれている。また「『生成』の問題」ということで暗にその関連が示されているのは、勿論、私がカヴァイエスから学んだ数学の生成の問題である。両者をリンクする形で思考を進めていけるだろうか?

〈探偵小説の記号図式〉に対する補足(2):第二次性について

 昨日の記事に続いて、「探偵小説の記号図式」に対する補足をおこなう。今日は「第二次性」についてである。

 第二次性とは、「何が起きたか?」という記述の対象としての〈事件〉のカテゴリーであり、手がかりを読むことや推理という〈読解〉を通して事件を解明することが探偵小説の主眼をなす。そしてこの第二次性には、パースに倣ってさらに三つの相が区別される。

 イコン → 探偵小説における類似性(双子や変装といった誤認トリックなど)

 インデックス → 物と物の連鎖(機械的トリックなど)

 シンボル → 人の思考・行動の絡み合い(心理的トリックを含む)

 

 さて、パースによれば、イコンの代表例とは「肖像画」のようなものである。正確には、「自分で所有する特性だけで対象に関わるような」*1記号である。するとここで疑問が浮上する。探偵小説において、例えば双子の類似性を使ったトリックが用いられたとして、それは言葉を用いて記述される以上、「肖像画とその対象としての人物」のようなイコン的な関係と異なるのではないだろうか?

 インデックスについても同様の指摘が可能である。パースによればそれは、「煙が火のインデックス」であるというように、「かかわりを持つ対象により実動的に影響を受けることによってその対象にかかわるような記号」*2である。とするならば、探偵小説において、例えば糸と針を用いた機械的な密室トリックが出てきたとして、それはやはり言葉を用いて記述される以上、煙と火のような「実動的な」(現実に作用し合う)インデックスの関係とは異なるのではなかろうか?

*1:パース『著作集2 ー 記号学』、内田種臣編訳、1986年、14頁。

*2:同所。

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〈探偵小説の記号図式〉に対する補足(1):登場人物について

 今回そして次回と、私が探偵小説の形成を考察するために作った「記号図式」に対する補足事項を書いておきたい。今回補足したいのは、登場人物についてである。

 まずは私の記号図式を掲げておこう。

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 詳細は省くが、最低限押さえておくべきこととして、「第一次性/第二次性/第三次性」はパースの記号学の三項関係に対応する、ということが挙げられる*1

 パースの記号学の基本をラフに言うならば、記号を「記号と対象」の二項関係でなく、「記号が対象を指し示すためには解釈項も必要である」以上、「記号ー解釈項ー対象」の三項関係で捉える、となる。そして私は、記号(それ自体)を探偵小説の「叙述」に、対象を「事件」に、そして「解釈項」を探偵小説における事件という対象を読むこと=「手がかり」や「推理」に対応づけた訳だ。簡単にまとめると以下のようになる。

 第一次性:探偵小説の叙述

 第二次性:探偵小説における叙述の対象としての事件

 第三次性:叙述と事件をつなぐものとしての読む行為(手がかり、推理)

 

 さて、このように書くと、叙述する人=記述者は第一次性に入り、読む人=探偵は第三次性に入り、その他の登場人物(被害者、目撃者、犯人など)は第二次性に入る、ように思える(実際、図式の最上段からはそのように判断できよう)。しかし ー ここからが本記事の核心なのだが ー 登場人物がそのように一意的に割り当てられるとは限らない、のである。

*1:詳しくは、拙著『数理と哲学 ー カヴァイエスとエピステモロジーの系譜』(青土社、2021年)の補論、もしくは以下の発表原稿を参照。https://researchmap.jp/daisukenakamura/presentations/18660760

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