Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

〈ありえないこと〉にしか希望はない

 以下は今後のための走り書きである。

 

 東京2020オリンピックに際して、様々なことが「可能である」とされた。例えば開催前の時点では

ー 民間団体であるIOC東京オリンピック開催の権限はなく、それは中止することが可能である(それゆえ人間の生命を考えれば中止すべきである)。

ー 十分な対策を打てば、安全安心な開催は可能である

 開催後であれば

ー 確かにハードルは高いが、原理的には開催途中での中断は可能である*1

 「望まれ」、求められたこれら三つの可能性は、残念ながらいずれも実現しなかった。事前の中止も、安全な形での実施も(少なくとも今回のオリンピックが「安全」であったとは言えないだろう)、中断もなかった。

 こうした様々な「可能性」が断たれた。そこにはいくばくか私たちを暗澹とさせるものがあるかもしれない。だが ー 少し話を飛躍させてしまうが ー 仮に望むべき可能性がすべて尽くされてしまったとして、残るのは「絶望」なのだろうか。

 多くの人が「希望」を「小さな可能性」と、あるいは「実現へ向けて行動するに値する、ごくわずかの可能性」と等置しているように思える。だが、希望は可能性概念から手を切るべきなのではないだろうか。むしろ希望は「不可能なこと=ありえないこと」の側にしかない、そう考えてみることが必要なように思える。

 

 私たちは様々な「可能なこと」を考える。私はこれから、近くのコンビニに行くことも可能だし、車に乗って遠くに出かけることも可能である。そして「不可能なこと」には、考慮することからまったく考慮しないものまで色々とある。「今から3時間後に現在地から300キロ離れた場所にいることは、車を使っても不可能だな」とは考えても、「小説の登場人物が目の前に身体をともなって現れること」は考えもしない類の「不可能ごと」だろう。ここで、問題にしているのは、どちらかというと後者である。「私たちが自明視していてそもそも考えることができない、議論の俎上に乗せることもしない」ような、そうした「不可能なこと」くらいにひとまずは言っておこう。

 そして、そのような「不可能なこと」の内にしか希望ない ー 私はそのように言うことで、ジャン=ピエール・デュピュイの「賢明なカタストロフ論」に敬意を表しつつ、それをある仕方で逆転して使うことを考えている。

 

 デュピュイの議論によれば、カタストロフ(今は簡単に「破局的な大惨事」と思えばよい)は起こるまでは、考慮に値しない「ありえないこと(l'impossible)」だとされている。しかし起こってしまえば、それは遡行的に「起こるべくして起きた」とみなされる。彼はここを起点に、カタストロフを回避する行動に向かうための哲学を構想する。

 私が提案したいのは、彼がカタストロフについてこのように述べたことを、カタストロフ以外の事象に対して、いわば肯定的に使用することだ。つまり、逆説的に見えることを承知で言えば、現実化すべき「ありえないこと」を考えることだ。誰もが「そんなことはできない」(そもそも「できる/できない」という議論の俎上にさえ載せられないほどに「できない」)とされていることにのみ希望はある、とはそのような意味である。

*念の為述べておくが、これは「不可能を可能にする」といった標語や、企業やスポーツ、さらにはアカデミズムにおいてさえ現在頻繁に用いられる「チャレンジ」といった言葉とはおよそ無縁な考えである。これらの標語や言葉は「人間の可能性は無限だ」といった、資本主義と相性の良い考えとおそらくは密接に結びついている。むしろここで目指しているのは、こうした論理をブロックする思想である。

 

 今しがた、「現実化すべき『ありえないこと』」と述べた。そう、さらに考えるべきは、希望としての「ありえないこと」の現実化、さらに強く言えば、その現実化の必然性である*2。その現実化こそ「出来事」と呼びうる何かではないか ー この主張を十全に展開する力は今はないが、ひとまずの議論の見通しを次のようにつけておこう。ここまで語ってきた「不可能なこと」とは、「認識論的な不可能性」のように思える。つまり、事柄としては生じうるのだが、その生じうることが認識できないのだ、と(たとえば蜂起のような大きな事が生じる可能性はあるのだが、それを認識できていない、というように)*3。堅苦しく言えば、「存在論的可能性の認識論的不可能性」ということになる。だがそうではない。「生じうる可能性」は、起こった後に、事後的に過去に投射された「生じえた可能性」に過ぎないのではないか。とするならば(ここに飛躍があることは承知だが今は措く)、存在論的不可能性が存在論的可能性へとある時間性のもとで書き換えられてしまう、その隙間に「出来事」がある ー そう言ってみたくなるのである(これは勿論「生成」の問題でもある)*4。そして、その出来事にはデュピュイとまた違った意味での偶然性が孕まれている、とも。

 

 ここでラフにスケッチした内容は、フランス現代哲学で展開されてきた「不可能なこと」をめぐる様々な思索の、一つの亜種にとどまるのかもしれない(そして思弁がなお勝っていることも重々承知である)。いずれにせよ確実なのは、「可能なことを引き起こそうとする」ことが無意味ではないにせよ、それだけではもはや立ち行かなくなっている、ということだ。東京2020オリンピックをめぐる様々な言葉の群れは、少なくとも私にとって、このことを強く意識化させるのに十分なものではあった。

 

*8/10 字句一部修正。

*1:[8/10追記]これら三つの内、例えば最初と最後のものについてはTwitterで検索してみてほしい。最初のものについては「五輪 中止できる」や「五輪 中止可能」などで検索すると一定程度ヒットするし、最後のものについては「五輪 中断できる」で数こそ多くないがヒットする。勿論「エビデンス」とは言えないものだが、ひとまずの参照点とはなろう。二番目のものについては、ある時期までは傾聴すべき見解が存在したことは事実であるものの、まずは政府が繰り返し述べたあれら空虚な言葉を思い浮かべれば十分である。

*2:私は文学の中ではとりわけて探偵小説を愛好しており、またそれと並ぶ娯楽小説のジャンルであるSFも好きであるが、その理由の一つは、これらのジャンルで描かれていることの「ありえなさ」による。にもかかわらず、その「ありえなさ」のもつ現実的な力が存在するとも思っている。フィクションの哲学と関連して、この点は深めていかねばならないだろう。

*3:[8/10追記]この点、やや走り書きに過ぎたようで再考が必要だろう。デュピュイの議論をより正確に見れば、「カタストロフが起きる可能性は認識されているが、それを信じて回避する行動を取ることができない」となるからだ。

*4:[8/10追記]それゆえ本記事のタイトルとして、「不可能なこと」ではなく、存在論的不可能性を含意する「ありえないこと」が選ばれている。また「『生成』の問題」ということで暗にその関連が示されているのは、勿論、私がカヴァイエスから学んだ数学の生成の問題である。両者をリンクする形で思考を進めていけるだろうか?