Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

「見立て殺人」の一到達点:笠井潔『サマー・アポカリプス』

 今回は笠井潔氏の矢吹駆シリーズの第二作目にして傑作『サマー・アポカリプス』(1981)を取り上げる。前回『バイバイ、エンジェル』を論じた際は、このシリーズ第一作目が通常扱われる際のサブジャンル=「首なし屍体もの」とは、敢えて異なった視点から考察した。だが今回は、『サマー・アポカリプス』という作品の中でおそらくは最も論じられるであろう探偵小説上のテーマに、直截に切り込んでみたい。それは勿論、「見立て殺人」である。本作の見立て殺人ものとしての意義は何か、これがこの記事の主題となる。

 引用は最初の単行本である角川書店版(1981)による。また、クリスティーの『ABC 殺人事件』及び — 最近の記事の焦点の一つである — チェスタトンの『ブラウン神父の無心』にも言及する。

 

【以下、本作、及び『ABC 殺人事件』と『ブラウン神父の無心』の核心に触れる。】

 

1.黙示録の見立て

 この作品では、「ヨハネの黙示録」の四騎士に見立てられた四つの連続殺人が起こる。最初の三つの事件と「見立て」の謎は、「素人探偵をかって出た」ジュリアン・リュミエールによって作中では解かれる。三つの事件の「見立て」をまずは見ておこう。

  • 最初の事件では、弓と矢、そして殺された白い馬が、「白馬に乗った黙示録の第一の騎士」(103頁)に見立てられる。
  • 第二の事件では、現場に置かれた剣と、殺された栗毛の馬が第二の騎士に見立てられる。
  • 第三の事件では、秤と殺された黒い馬が、第三の騎士に見立てられる。

 さて、こうした「見立て」に対するジュリアンの推理は次のようなものだ。連続殺人は、「四騎士」の署名入りの脅迫状の予告に沿って行われたが、カタリ派の信仰に由来する秘密組織は存在しない。すると「犯人によってばら撒かれた不吉な象徴の全部が、その意味を逆転されねばならない。〔…〕何かを表現するものとしての象徴は、何かを隠蔽するための暗号になる」(269頁)。要するに、見立てられていた諸要素 — 例えば弓と矢、そして馬 — は、「黙示録」という意味づけを欠くや否や犯行方法、ひいては犯人を「誰の眼にも明らか」にしてしまうようなものであり、それを隠蔽するためにこそ黙示録の見立てが要請されていた、というのである。

 特筆すべきは第二と第三の事件における「馬」の処理であろう。馬が黙示録中の何かを表す記号としてではなくより即物的に捉えれば、〈速さ〉〈力〉がその利用価値として浮上する。

  • 第二の事件では、馬の〈力〉を利用して犯人は被害者を殺し、同時に密室を作り自殺に偽装した。栗毛の馬は(見立てに用いるべく)殺されるためにその場に運ばれたのではなく、トリックに使われたがゆえにその場で殺されねばならなかった。
  • 第三の事件では、馬の〈速さ〉を利用して犯人はアリバイ工作を行なった。黒い馬を使って走り抜けた後、途中で射殺し、ずっと歩いていたように偽装した。

 この〈黙示録の象徴から隠蔽の暗号解読へ〉という見方の転換は、探偵小説ならではのエレガントなダイナミスムを感じさせるものだ。次節では、この推論のもつダイナミスムの秘密に、探偵小説の歴史を踏まえて迫りたい。

2.事件現場の空間と連続殺人の時間

 前節最後に取り上げた「栗毛の馬」と「黒い馬」は、二重の意味でチェスタトン言うところの〈木の葉は森の中へ隠す〉トリック — このトリックを以下簡単に〈隠すトリック〉と呼ぼう — となっている。

  1. 【空間性】栗毛の馬は剣と、黒い馬は秤と、それぞれの事件現場で並置されている。ここでは、事件現場といういわば「空間性」の内で、馬を犯行に用いられていない他の要素(剣、秤)のうちに紛れ込ませてしまう手法が取られている。
  2. 【時間性】栗毛の馬と黒い馬と異なり、第一の事件の白い馬(及び第四の事件で青ペンキをかけられて殺された馬)は犯行に用いられていない。今度は、連続殺人という「時間的な系列」の中で、二頭の馬を他の馬のうちに紛れ込ませてしまう手法が取られている。

 ここで、先述した「木の葉を隠すなら森の中」の言葉が出てくるブラウン神父ものの傑作「折れた剣」(1911)を振り返っておこう。この作品では、将軍は「自ら手のかけた殺人死体」を隠すために、戦場に死体の山を築こうとする。すなわち、死体と道具の違いはあれ(この違いの意味するものについては次節で論じる)、「折れた剣」では戦場、『サマー・アポカリプス』では事件現場というそれぞれ「空間性」の中で、この〈隠すトリック〉が用いられていることになる*1

 対して、「時間性」についてはクリスティーの『ABC殺人事件』(1936)を参照しよう。この作品の犯人は、「一連の無関係な被害者グループの中に、真に殺したい相手を紛れ込ませる」ことで犯意を隠そうとする。法月綸太郎氏はクリスティー文庫版の解説で、これを「折れた剣」の〈隠すトリック〉の連続殺人への応用であると指摘している。そしてこちらの記事で書いた通り、この応用を可能ならしめたものこそ、A, B, C, ...(アルファベット順)という特定の「順序構造」を備えた「列(シークエンス)」であった。するとここでも死体と道具の違いこそあれ、『ABC殺人事件』と『サマー・アポカリプス』のどちらにおいても、連続した事件の「時間系列」の中で〈隠すトリック〉が用いられていることになる。

 さて、クリスティーにおいて、〈隠すトリック〉を連続殺人の時系列へと変換する際に必要だったものは、「アルファベット順というシークエンス」であった*2。では、『サマー・アポカリプス』において、「空間性」と「時間性」、それぞれの局面で働く〈隠すトリック〉をまさしくトリックとして成立せしめているものは何であろうか。無論のこと、それは「ヨハネの黙示録」という見立てである。各騎士の描写と、四人の騎士の順繰りの登場、これが一方で事件現場において、他方で連続殺人の時系列において、「無関係のものの中に犯行道具を隠す」ということを可能にしている。要するに、『サマー・アポカリプス』における「黙示録の見立て」は、空間性と時間性、二つの局面における〈隠すトリック〉の使用を統合的に可能にするものなのである。

3.手がかりの伏線化

 しかし話はここで終わりではない。この事件で隠されているものは「死体」ではなく、馬という「犯行に用いた道具」であった。この点の考察は、「手がかり」という探偵や捜査陣が読む記号と「伏線」という叙述との関わりへとわれわれを導く。

 まず「黙示録の見立て」がなかったと仮定してみよう。そのとき、犯行に用いられた「馬」はどうすればよいだろうか。厩舎に戻すとしても、馬蹄の跡などが残るだろう。逆にその場で殺しても怪しまれるであろう。いずれにせよ、犯行に馬が何らかの形で関与していることは ー ジュリアンが指摘する通り ー「誰の眼にも明らか」(270頁)となる。名探偵どころか、愚鈍な警察にさえ明らかなものに。こうした目に見える形で読みうる記号、それは自明な「手がかり」というべきものである。

 他方、「馬」という道具を、我々読者は記述として確かに目にしている。にもかかわらず、解明に至るまで、読者はそれを事件の記号として読むことができない。こうした「事件に関わるとは思われなかった記号が、解明において遡行的に事件を指し示すものになる」記号、それは探偵小説において「伏線」と言われる。要するにここで起きているのは、手がかりを解明までは見えないようにしてしてしまう、「手がかりの伏線化」なのである。

 本作を評価するために、ここは慎重に議論すべきところであろう。自明とさえ見えるあからさまな手がかりをいかに読者から隠して伏線化するか、というのは、探偵小説においては様々に探求されてきたからだ*3。例えばアガサ・クリスティーを挙げよう。かの女の代表的傑作『五匹の子豚』(1942)では、伏線、ミス・ディレクション、ダブル・ミーニングといった多様な記述が乱舞する(こちらの記事を参照)。そしてその中のある叙述は解明から事後的に振り返れば、自明なまでの手がかりである。しかし読者はそれにすぐ気がつくことができない。その理由は、手がかりに相当する叙述が、他の多くの記号(ミス・ディレクション、ダブル・ミーニングなど)の中に埋め込まれているためである。「鍵となる叙述が他の叙述の中に紛れ込まされている」と言ってもよい。

 本作で起きている事態は異なったものだ。前節で述べた通り、「馬」という自明なまでの手がかりを隠すことを可能にしているのは、「ヨハネの黙示録」という見立てである。黙示録は、文字通りその黙示的な雰囲気においてだけでなく、さらには空間性と時間性の両面にまたがって諸要素を配置しうるという点で、強度を供えた「誤導」として機能している。そこでこうまとめられるだろう。『サマー・アポカリプス』の探偵小説としての核心の一つ、それは〈ミス・ディレクションとしての「見立て」による手がかりの伏線化〉にあると*4。見立てを、ミス・ディレクション、手がかり、伏線といった探偵小説固有の記号と組み合わせた本作を、「見立て殺人」ものの到達点の一つと評価することができるだろう。

4.「見立て」のその先へ

 ジュリアンは「見立て」の意味を解明した後、その犯人はオーギュスト・ロシュフォールであると指摘する。矢吹駆も自分と「まったく同じ」と述べる、ジュリアンのこの推理で事件は幕を下ろしたかに見えた。だが、終章の手前でカケルの口から告げられるのは、ジュリアンはオーギュストによる「見立て殺人」の犯罪計画を利用し、最後にオーギュストを殺す計画を立ててそれを実行していた、という事実であった(そしてカケルはと言えば、このジュリアンによるロシュフォールの犯罪の利用という事件全体の構図を、今度はシモーヌリュミエールとの精神的ないし霊的な闘いに利用していた)。

 最後に指摘しておきたいのは、「見立て殺人」の真相解明が矢吹駆によってではなく、ジュリアン・リュミエールによってなされる、ということの意味についてである。有名な海外作家による幾つかの作品では、「犯人が探偵に誤った推理をさせるよう仕向け、その推理によって罪を逃れて犯罪計画を終わらせようとする」という趣向のものがある*5。対してここでは、「真犯人が自ら正しい推理を披露することで罪を逃れ、犯罪計画を終わらせようとする」のである。これが、カケルがジュリアンの犯罪を「いうところの完全犯罪」(300頁)と形容するところのおそらくは真意であり、『サマー・アポカリプス』をそれら諸作品からの展開として位置付ける際のポイントと思われる。

 

 チェスタトンの『ブラウン神父の無心』を軸として行なってきた最近の考察は、この記事でひとまず終えることにしたい。次の投稿では、『無心』を中心に据えたときに見えてくる「探偵小説の形成と構造」のネットワークを提示する予定である。

*1:これと類似したトリックは『ブラウン神父の無心』の中で度々登場するが、いずれも「空間性」の中で用いられている。こちらの記事を参照。

*2:以前の記事で述べたように、『ABC殺人事件』で各事件に対応づけられる「アルファベット順」とは、「見立て」とは言えないものの、「見立て」から物語などを排除し〈順序構造〉だけを残したもの=「シークエンス」である。この意味で、『ABC殺人事件』が本作のような「見立て殺人」ものと探偵小説の構造において関係するのは偶然ではない。

*3:ここはミシェル・フーコーの言葉を転釈して、「不可視な可視性」の探求と言いたいところだ。「かくして医学的なまなざしは、病理解剖学の発見以来、二重化された。一方には局所的で限定されたまなざしがある。それは触覚と聴覚の境界にあり、感覚野の一つしかカバーしないし、可視的な表面しかほとんどかすめない。しかし他方には絶対的なまなざしがある。それは、あらゆる知覚経験を支配し基礎付ける、絶対的に統合的なまなざしである。〔…〕臨床解剖学とそれに由来する医学全体を命じる、知覚的かつ認識論的な構造とは、不可視な可視性(l'invisible visiblité)のそれである。真理とは本来の権利からして眼のためにできているものだが、それは眼から隠されている。しかし、眼を巧みに逃れようとするものによって、真理はたちまち、こっそりと顕らかにされるのである。知は諸々の覆いの働きにしたがって展開する。隠された要素は隠された内容の形式とリズムを受け取り、その結果、ヴェールはその本性そのものからして透明なのである。」(Michel Foucault, Naissance de la clinique [1963], PUF, 2000, p. 169-170;邦訳『臨床医学の誕生』、神谷美恵子訳、226-227頁)警察の局所的なまなざしと、ヴェールを透明にする探偵の絶対的なまなざし。

*4:念のためチェスタトンの「折れた剣」と対照させておこう。将軍は「切っ先の折れた剣が残った死体」が、自らの犯した犯罪の手がかりとなることを恐れた。だから無謀な戦を起こして死体の山を築き、そこに自分が手にかけた殺人死体を紛れ込まそうとした。それゆえここでも、「手がかり」を隠すことが無論のこと狙われている。だが、読者はブラウン神父による解明の前に、「将軍の剣が折れていたこと」に関する記述は目にしても、「切っ先の折れた剣が残った死体があったこと」に関する記述は目にすることはない。しかし本作では、隠すものを「死体」から「道具としての馬」に移し、それを記述として提示することで、「伏線化」しているのである。

*5:(作家と作品名を挙げるため以下反転)作家は勿論エラリー・クイーン。当てはまる作品は『ギリシア棺の謎』、『靴に棲む老婆』、『最後の一撃』。