Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

「自由フランス」との接触—フェリエール『カヴァイエス:戦中の哲学者』要約 (14)

 実姉ガブリエル・フェリエールによる数理哲学者カヴァイエスの評伝『ジャン・カヴァイエス ― 戦中の哲学者 1903-1944』(Gabrielle Ferrières, Jean Cavaillès. Un philosophe dans la guerre 1903-1944 [1950], Paris, Félin, 2003)の要約、今回は第12章の前半である。

 レジスタンス活動中のカヴァイエスは一度失敗した渡英に成功し、「自由フランス」*1接触を果たす。

第12章 ロンドンでの任務(前半)

ド・ゴールと会う

 カヴァイエスはモンパルナス駅を出発し、ブルターニュへと向かった。見送りにきたゴッセやフェリエール夫妻らは、カヴァイエスのロンドン行きの使命を誰一人知ることがなかった。彼は1943年2月14日、漁船を使って出航し、彼を待っているイギリスの船に乗り込んだ。ドイツ軍の空爆を受けつつも、今度はイギリスに到着、彼はクリヨン(Crillon)という偽名で二月半ばから二ヶ月間そこに滞在することになる。

 彼は勿論ロンドンで「自由フランス」と接触する。ところがこの接触は彼を失望させたらしい。そこには浅薄なおしゃべりがあり、また渦巻く打算や野心は彼の中に潜む「戦士」の眉をひそめさせるものだった。確かに、ナチス・ドイツヴィシー政権との闘争を放棄することは論外である。だがそれは敵に直面しているフランスでのみ — 何の見返りも求めることなく — 正当化されることだった。

 カヴァイエスがロンドンにいたのは、命令を受けるためでも、身を守るためでもなく、自身の動機を擁護するためだった。というのも、レジスタンス活動が採りつつある政治的方針に憤っていた彼は、行動へと完全に身を捧げようとしていたのである。

 ロンドン滞在中、彼はド・ゴールに何度か迎え入れられる(最初の会見のときに持って来た彫像を渡している)。カヴァイエスは帰仏後もド・ゴールを尊敬していたが、闘争が持たざるを得ない残酷な面を前にして普通ならば示さざるをえない感受性を、彼がまったく隠し切っていることを責めてもいた。

 また、ド・ゴールの片腕であったクロード・ブシネ=セルル(Claude Bouchinet-Serreules)は共和制の諸制度を立て直す計画の側にカヴァイエスを引き込もうとした。しかし活動の継続をあくまでも望むカヴァイエスはこれを断った*2

活動の過激化

 四月の月夜、カヴァイエスはパラシュートでイギリスからフランスに戻って来た。新たに、第3章で出てきたル・クール一家が彼をかくまった。

 カヴァイエスはイギリスから重要書類を持ち帰り、またラジオを介してロンドンから二つの指令を受けた。

  1. ブルターニュにある海軍の倉庫で潜水艦(Uボート)の妨害工作を行うこと*3
  2. 森鳩ミッション(Mission Ramier):海岸にあるドイツのラジオ無線設置状況を偵察すること(これは第10章にも出てきたイブ・ロカールに託された)。

 そう、このときには、カヴァイエスは「解放」の運営委員の任を解かれ、軍事活動に専念していた*4。生活のリズムが加速して行く。彼は自分が探し回されていることを知っていたが、もちろん捕まる気はなかった。彼は、先述した通り「魔」に導かれていた(mené)ようだった。その「魔」は彼にいかなる不調も停止も許さず、彼を数学的厳密さで指導し続けた。これについて、フェリエールはアルベール・ロトマン夫人宛の手紙を引用しているが、カヴァイエスが友人レイモン・アロン(Raymond Aron, 1905-1983)にロンドンで語ったとされる言葉のほうがより象徴的なので、それを引用しておく。

僕はスピノザ主義者だ。僕たちは至る所で必然的なものを把握する、と信じている。数学者の連鎖は必然的だし、数理科学の諸段階でさえそうだ。そして僕らが率いているこの闘争もまた必然的なんだ(Georges Canguilhem, Vie et mort de Jean Cavaillès, Paris, Allia, 1996, p. 29)。

*1:この頃は「闘うフランス」と名称を変更しているが、フェリエールの表記に従う。

*2:フェリエールはこの伝記中で語っていないが、このロンドン滞在中にカヴァイエスは哲学者シモーヌ・ヴェイユ(Simone Weil, 1909-1943)と会って話している。以下参考までに、シモーヌペトルマンによるヴェイユの評伝の一部を引いておこう。
「彼女がエコル・ノルマル時代に知っていたカヴァイエスが、二月半ばから四月半ばまで、二ヶ月間ロンドンにいた。シモーヌは、〔モーリス・〕シューマンもいるところで、彼と話をした。自分がやってみたいと思っていることを、彼に打ち明けた。彼は、彼女の意気込みを徹底的にくじく勇気がなかった。だが、後でシューマンと二人きりになったとき、シューマンに、彼女の要求していることはまったく不可能だと語った。〔…〕彼には、個人の使命なんて問題にもならなかった。各人は、自分の置かれた場所で仕えるべきであって、めいめいが勝手にそれを決めるのではないと、彼は考えていた。彼は、自分の内部にあった知識人をほろぼし去っていた。そして、今ではまったく、軍人そのものだった。その彼は、シモーヌについてこう言った。『彼女のケースは、例外的な高貴さなどというものではないのだ。今日では、もはやそういうケースは存在しないのだ』と」(シモーヌペトルマン『評伝シモーヌ・ヴェイユ II 1934-1943』、田辺保訳、勁草書房、1978年、399頁;訳語一部改)。

*3:当時ブルターニュの街ロリアンにはUボートの基地が作られていた。カヴァイエスはそこに侵入し、爆破工作などを行っていた。

*4:帰仏後過激化したカヴァイエスの活動からは、自由フランスと共同歩調を取らない訳では必ずしもないものの、しかしそれから半ば独立した抵抗運動の姿が見てとれる。二つの国が対立し、争っているとき、私たちは多くの場合、どちらの側につくかをまず考えてしまう。だが、侵略した側につくことができないのは当然のこととして、その反対の側の国をも単純には支持し得ない場合がある。カヴァイエスの教えは、後者と部分的に共闘しつつも、自律的な活動をする組織や道が存在しうる、ということのように思える。