Superposition de la philosophie et de ...

中村大介による哲学と他のものを「重ね合わせ」ていくブログ。目下は探偵小説の話題が中心になります。

「無名5号」—フェリエール『カヴァイエス:戦中の哲学者』要約 (17)

 実姉ガブリエル・フェリエールによる数理哲学者カヴァイエスの評伝『ジャン・カヴァイエス ― 戦中の哲学者 1903-1944』(Gabrielle Ferrières, Jean Cavaillès. Un philosophe dans la guerre 1903-1944 [1950], Paris, Félin, 2003)の要約、今回は最終第14章である。これにて要約は最後となる。

 カヴァイエスの行方は分からぬまま、フランス解放のときが訪れる。

第14章 「己の名を言おうとさえしなかった死」*1

 1944年春、フランス解放*2

 ドイツの収容所からは何の知らせも来ない沈黙の冬だったが、フレンヌでのカヴァイエスの幾つかの様子についてはフェリエールの許に届いていた。

 彼は自分を待ち受けている運命について、どんな幻想も持っていなかった。彼は同僚に、どんな風に最初の取り調べの最中、尋問官が彼のレジスタント名をもったいぶって列挙したかを語っていた。「君はマーティー、エルヴェ、シェヌヴィエール、キャリエール、シャルパンティエなどと名乗り、ロンドンに向かったときには、大きな情報網をつくりあげた。ロンドンには1943年2月に着いて……」。相手はすべてを知っていた。これほどの正確な情報を前にしては、否定することなどできなかった。彼は自分一人に関する事実を認めた。

 取り調べ官は続ける。「こういった状況では、ムッシュー、自分を待ち受けている運命がおそらく分かるだろうね」

「ええ」、ジャンは答えた。

「こういった活動をした動機を教えてくれるかね」

 ジャンはこう述べた。自分は公吏の息子で、父から自分の国を愛するように教わった。そして、闘争を続けることで、この国が崩壊することの苦しみを抑えていたのだと。そしてまた、自分はドイツという国の心からの賛美者で、カントやベートーヴェンのドイツをどれほど愛しているかを告げた*3。最後に彼は自身の哲学的立場を展開して、自分がこれらドイツの師たちの思考を自分の人生において実現したのだ、と論じた。

 尋問官は黙って、お前は死に行くのだと宣告したばかりの男の考えを聞いていた。ジャンはソクラテス流の会話で、モラルを自らの判事に提示していたのだ。

 

 翌1945年春、フェリエールの夫マルセルが帰ってくる。彼によると、カヴァイエスとマルセルはコンピエーニュで引き離され、ドイツ行きの同じ列車には乗らなかった。ただドイツに着いたのは同じ1944年1月19日。カヴァイエスは、そこで突然決定された強制収容所送りに驚いたらしい。というのも、彼はドイツで調査され続けると思っていたからなのだが、どうもドイツ人たちはダニエルという名前での彼の活動 — それは彼が北部占領地域で破壊工作をする際に用いていた偽名だった — を知らないようだった。

 しかし22日、彼の名は強制収容所送りとなる者のリストからは消されていた。義兄は彼の到着を待っていたが、後から来た人の話によるとカヴァイエスはコンピエーニュに連れ戻されたとのことだった。

 

 連日連夜、フェリエールとマルセルはカヴァイエスの帰りを待った。だが様々な相矛盾する話が入ってくるだけだった。ド・ゴールも彼を捜すために飛行機を派遣したが、見つけることはできなかった。

 1945年6月28日、戦争大臣が、ヴィースバーデン休戦委員会の資料室を調べたらカヴァイエスに関する書類の一部が見つかった、と告げた。その書類によると、カヴァイエスはアラスの軍事法廷によって1944年頭に死刑の判決が下され、刑の執行は速やかになされた、ということだった。

 以下、この本最後のフェリエールの記述を一行空けて全文引用する。

 

 しかしこれは確実な知らせではなかった。同じような決定が覆されることもしばしばだったから、希望は残っていた。私はアラスに向かった。市役所での話では、城塞の穴から掘り出された十二の死刑者のうち、三体の身許が特定されていないということだった。市長は遺体の様子を記した書類を持っていて、私にそれを読んで聞かせようとしていた。最初の遺体はジャンではなかった。二体目は彼に似ていた。市長はこう読み上げた。「上着の左ポケットに、消えかかった写真の入った財布がありました」。

 同じ小さな財布が私の鞄にも入っていた。また両親の同じ写真も。緑の革の財布で、手渡されたものは、地面に擦れて黒くなっていた。そして、その財布を包んだ封筒には、「無名5号(Inconnu N° 5)」*4と書かれていた。

 アラス墓地の見捨てられた一角にある彼の墓のそばに、白い薔薇の木があった。たまたまそこに植えられたのだろう。力強い野生の薔薇の木だった。開いた花の近くで、私はジャンがずっと生きていると感じた。

 小さい頃、父が「我らの国」と呼んだピレネーで過ごした休暇での彼のことを、私は想い起こす。私たちはよく夜明けに友達たちと出かけ、山頂へといたる長い道のりを登っていった。ジャンは喜んで私たちの小さな一団に加わっていた。だが少しずつ、彼の足取りは長くなり、物思いに耽って私たちから遠ざかってしまうのだった。私たちは彼を目で追うが、彼のシルエットはほの暗い点になり、その点はちょっとずつぼやけていって、ついには消えてしまうのだけど、襲いかかるかのような山の岩々を通って再び姿を現すのだった。彼が通るのは険しい小道、そしておそらくは、徐々に険しくなっていく岸壁であり、そこではただちょっとしたでこぼこだけが彼に足がかりを与えてくれるのだった。

 彼は私たちから離れて、自分の登り方を続けた。彼は、人間が直観的な雷光によってのみ加わることのできるような宇宙の、一つのかけらであった。冒険家であること、征服する人間であること、これらが彼を引き止めるなどできただろうか。

 自分の仕事がうまくいっていないとき、彼はよく「後ろめたさを感じる」と言っていた。そして彼は進み、常に探しまわって、しばしば疲れ切っていた。

 彼は英雄として死んだのであって、殉死したのではない。彼は強制収容所で長く続く衰弱を経験せずにすんだ。彼は力に溢れ、分別に長け、才気に満ちていた。私は、自分たちの父が亡くなったときに弟が書いた言葉を、弟自身に対して、弟自身のために、記しておきたい。「彼はあらゆる物を眺めるのと同じようにして、死がやってくるのを眼前に見つめた。平静さと共に、また、プラトンの掟に従って真理を追究した者たちの簡素さと共に。そして、ただ精神だけによるのではなく、魂全体によって」。 (了)

*1:引用符内の出典は不明。

*2:フランス解放は8月のことだが、フェリエールは「春(Printemps)」としている

*3:カントについては第2章および第6章を、ベートーヴェンについてはやはり第6章を参照。

*4:この語は、おそらくは « soldat inconnu » という表現を念頭に、「無名戦士(兵士)5号」としばしば訳されてきた。これは訳として勿論間違っている訳ではないものの、ここでは「戦士」の語を除いて直訳する。それはまずもって単純に「身元不明人」の意味だから、ということもあるが、もう少し哲学的な理由もある。カヴァイエスは確かに「戦士」として、そしてフェリエールが述べるように「英雄」として死んだ。だがそこに例えば、多くの人をたった一人で救おうとするかのようなナルシスティックな英雄的行為を見て取るのは間違いであろう(ましてや彼の行為に、死に惹かれ、自らを英雄に擬すかのようなロマンティシスムを見るなど論外である)。ペトルマンによるヴェイユ伝に書かれているように、それは「自身のいる場所でしかるべきことをなすこと」に忠実であった結果に過ぎない。彼のこうしたスピノザ的とも言うべき思想と行動を示すべく、ここでは敢えて素っ気なく訳す。そしてこれはまた、ナチス・ドイツによってユダヤ人が絶滅収容所で番号で呼ばれていたことと、無論のこと様々な対照性はあるにせよ、しかしその同時代的な必然性と共に、彼の死を捉えることでもある。